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天守

更新日:2018年3月1日

 生駒期の天守は外観や内部の構造については不明ですが、絵図や古文書によると3重だったとされています。この天守を改築したのが松平頼重です。改築された天守は3重5階(3重4階+地下1階)建で、寛文10年(1670年)に完成しています。天守の最上階が下の階より張り出した南蛮造り(唐造り)で、さらに地上1階部分が石垣より張り出した構造となっていました。その大きさは、『小神野筆帖』によると「高17間半、内石垣4間」とあるため、地上部分の高さは13間半であることが分かります。1間を6尺5寸(約197センチメートル)と仮定すると、26.6メートルとなります。四国最大級の規模を誇った天守も、明治17年(1884年)に老朽化を理由に取り壊されました。

写真:天守古写真(公益財団法人松平公益会蔵)

玉藻廟

 天守跡地には、最後の藩主であった松平頼聰により明治34から35年(1901年から1902年)に初代頼重を祀る玉藻廟が建築されました。昭和19年(1944年)には戦火を避けるため、屋島神社に御神体(理兵衛焼の頼重像)を遷座し、その後、昭和31年(1956年)に公益財団法人松平公益会敷地内に新玉藻廟が建築され、再遷座しています。天守台上の旧玉藻廟はその傷みが激しいことから、石垣修理工事に伴い平成18年(2006年)9月から11月にかけて記録保存を行い解体しました。

写真:天守に所在した玉藻廟

天守台前面

 天守台の前面付近では、多量の瓦と漆喰が出土しました。なかでも天守台北西隅角部裾では漆喰が折り重なるように出土しており、天守に使用された漆喰と考えられます。また、天守台南西隅では、鬼瓦の一部が出土しました。

天守の漆喰
 漆喰と一口で言っても、普通の漆喰以外に四国では高知県を中心に「土佐漆喰」と呼ばれる漆喰も用いられます。普通の漆喰は、消石灰とスサを海藻海苔で練って作ります。一方、土佐漆喰は海藻海苔を使わず、稲藁のスサを発酵させ練りこむことが最大の特徴で、普通の漆喰に比べ耐久性に優れています。天守台北西隅角部裾で出土した漆喰を調べたところ、この土佐漆喰を使用していた可能性が高いことが分かりました。しかし、現存する月見櫓、艮櫓では普通の漆喰が使われています。江戸時代の補修時に塗り替えられたのか?建てられた時期による違いなのか?疑問が残ります。

写真:天守台前面の漆喰出土状況

地下入口

 天守台西側には、玉藻廟へ参拝するための石段が設けられていました。その石段を撤去したところ、天守1階部分の入口と入口へ上がるための階段が検出されました。階段は上部が壊されており、正確な規模は不明ですが、入口は幅約2.8メートル,高さ約2.7メートル,奥行き約4.3メートルです。入口の石垣には刻印石や墨書も発見されました。このうち墨書は玉藻廟建築時のものと考えられますが、刻印石は江戸時代のものと考えられ、長方形や分銅形、上、ち、り等が確認されました。

写真:穴蔵入口と階段検出状況

地下1階

文献等から天守には地下1階があることは判明していました。地下1階は石垣で構築された部屋で、発掘調査を進めて行くと予想通り石垣が検出されました。しかし、石垣で構築された部屋の内部にさらに石垣が見つかり、まるで石垣でできた迷路のようでした。実は、内部の石垣は明治34年・35年(1901年・1902年)に建築された玉藻廟の基礎で、地下1階を埋め立てた上に建築を開始したのではなく、地下1階の床面から石を積み上げて基礎を造りながら埋め立てていたことが分かりました。埋め立てた土の中からは、家紋瓦をはじめ多くの遺物が出土しました。天守解体時には埋め戻されていないことから、天守に使用された遺物の可能性は低いと考えられます。

写真:玉藻廟基礎検出状況

 玉藻廟の基礎を撤去すると、地下1階の全貌が明らかとなりました。その規模は、上端で東西約14メートル,南北約12.6メートル,下端で東西約13.6メートル,南北約12.2メートル,深さ約2.7メートルです。床面では礎石が58個検出され、入口の6個を除く52個の礎石は「田」の字状に並んだ状態でした。なお、中央の礎石は少しズレた状態で、隣に抜き取り穴があることから、天守解体時に移動されたと考えられます。

写真:天守地下1階検出状況

 ほぼ完全な形で残っていた天守地下1階の礎石ですが、中央の石だけ動かされていました。中央の礎石は他の礎石よりも大きいので、動かすことも大変だったはずなのに、なぜこの石だけを動かしたのでしょうか?明治17年(1884年)の天守解体時に中心の柱の下に埋蔵金や宝物があるかもしれないと思って掘り返したのではないでしょうか!?今となっては、埋蔵金があったのか無かったのかは分かりません。
 なお、埋蔵金ではありませんが、礎石抜き取り痕のすぐ隣には、玉藻廟を造る際の地鎮と考えられる遺構が見つかりました。穴を掘って備前焼の小壺を埋納していました。

写真:中央礎石抜き取り痕

土台痕跡

 礎石の上面では天守の内部構造を解明する上で重要な各種痕跡が検出されています。まず、南東隅の礎石上面には南北方向に約30センチメートルの直線が刻まれており、礎石上部に据える土台の設置位置を示す可能性が考えられています。また、北西部の礎石にも土台痕跡と考えられる変色や破損が発見されました。この線刻と土台痕跡の間は東西約11.8メートルでした。『小神野筆帖』によると地下1階部分は「東西六間南北五間」と記載されており、1間を6尺5寸(197センチメートル)と仮定すると、東西は11.82メートルとなることから、文献の記載は正しいことが判明しました。
この他、入口部分の礎石上面や石垣には、柱の周りに付けていた金具のサビの痕跡を検出しました。この痕跡から1尺4寸(42.2センチメートル)×1尺1寸(33.3センチメートル)の太さの柱を使用していたことも判明しました。

写真:土台設置痕跡

柱穴

 礎石が検出された階段で、発掘調査は終了と思っていましたが、「田」の字状に並んだ礎石の空白部分の4箇所で柱穴が検出されました。柱穴の掘り方は直径約1.5~2メートル,深さ1.5メートルで、下部には礎石が据えられていました。北東と南西の2基では柱が抜き取られており、抜き取り跡は埋められていましたが、北西と南東の柱穴には直径30センチメートル余のツガ科の丸柱が70~80センチメートル残っていました。柱材を放射性炭素C14年代測定法(AMS法)にかけると、西暦1630年から1660年の可能性が高いことが示され、松平頼重による改築時に伐採されたと考えられます。こうして高松城の天守閣は、掘立柱と礎石を併用した他にあまり例の無い変わった構造であることが分かりました。

天守の木材の運命は?
 天守で検出された4つの柱穴のうち2つは完全に柱を取り除いており、どこかへ持ち去られたと考えられます。そのことを示す資料として『明治大日記』(防衛省防衛研究所蔵)があります。明治16年(1883年)陸軍によって城内建物の調査が行われており、今後も修繕をして残す建物と破却する建物に区分しています。惜しいことに、図面が残っていないので、実際にどの建物のことを指しているのか分かりませんが、天守が解体されたと言われる前年の記録であることから、破却する建物の中に天守が含まれていたことが予想されます。破却する部材については、「使用可能なものは城内の建物の修繕に使い、不用の物は売却したい」と陸軍省に伺いをたてています。実際に売却したかどうかは分かりませんが、今もどこかの建物に使われているものがあるかもしれません。

写真:柱検出状況

天守台石垣解体修理

 高松城跡は築城から420年が経過しており、石材の劣化や度重なる地震により石垣の各所でハラミ・ズレ・ヌケといった現象が見られます。石垣が危険な状態であることから、平成16年度に高松城跡の全石垣について調査を行いました。この調査により、天守台石垣が最も危険であることが確認され、平成19年度に石垣の解体を行いました。
 石垣の解体時には、石材の材質・積み方・刻印や墨書などの各種痕跡を記録し、石垣裏込めの栗石や内部の盛土についても、いつどのようにして石垣が作られたかという歴史的な調査と、石にかかる荷重や内部盛土の強度がどのくらいあるか?といった工学的な調査を行いました。調査の結果、内部の盛土がズレた状態を検出しており、盛土の強度不足などが確認されました。

 解体前には石垣の測量を行い、記録を取り、元の位置が分かるように20センチメートル以上の石材1個1個に番号を付け、50センチメートルメッシュで墨打ちを行っています。

写真:番付・墨打・外観調査状況

石垣解体に伴う石自体の伸縮を計測する機械で、縦・横・斜めの3方向から荷重のかかり具合を調査しました。

写真:ひずみ計設置状況

 天守の東西・南北を十字に切るように、幅1メートル,深さ約1メートルの溝状に掘削し、下の層がどのようになっているのか、下層に何か遺構がないかを確認します。また、次の工程を行っている間に断面図を作成して記録を残します。

写真:トレンチ掘削状況

 トレンチ掘削が終わると、盛土をバックホーにより薄く平らに掘削していきます。この時に盛土の中の遺物を収集します。盛土からは中世の瓦器椀や青磁などが出土しています。また、盛土の成分や強度などを調べるため土質試験も行っています。

写真:盛土掘削状況

 天守台の東面において、盛土に段差が生じ、東側(写真右側)が約14センチメートル沈下しているスベリと呼ばれる状況を検出しました。天守台石垣の東面は大きいハラミが見られ、危険性が指摘されていましたが、今回の発見により内部の盛土においても同様な危険性を認めることができました。石垣崩壊のメカニズムを考える上で、重要な発見と言えます。

写真:土層のスベリ検出状況

 盛土掘削が終わると、表面の石垣との間にある栗石をバックホーにより掘削していきます。栗石の中にも遺物が混じっていることがあるため、慎重に掘削していきます。特に天守の下部の方で五輪塔が大量に出土したほか、石臼なども栗石として使われていました。栗石の粒径や石材等の割合の調査も行いました。

写真:栗石掘削状況

 石材1個1個の大きさ、材質、積み方、加工状況、破損状況などの調査を行ってから、石垣を解体していきます。
トレンチ掘削・盛土掘削・栗石掘削・石垣解体の工程を1段(概ね高さ60センチメートル)ごとに繰り返し行い、1段分の石垣を解体するごとに上空からクレーンで写真撮影を行いました。

写真:石垣解体状況

 天守台南西隅の上から6段目の石材において、生駒家の家紋を刻印した石材が発見されました。高松城跡の石垣において見つかったのは初めてです。刻印石は江戸時代初期のものと考えられ、長方形や分銅形、上、ち、り等が発見されました。

写真:生駒家家紋刻印石検出状況

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