外曲輪
更新日:2018年3月1日
中堀と外堀の間を外曲輪と呼んでいます。江戸時代には武家屋敷が建ち並ぶ場所でした。現在、外堀は埋め立てられ市街化されており、城の雰囲気はありませんが、地割などにその名残りが見られます。近年ビル建設等に伴う発掘調査によってその一端が解明されつつあります。
松平大膳家中屋敷跡発掘調査
平成13年度にビル建設に伴い、高松市丸の内(115センチメートル)の発掘調査を実施しました。
調査地は現有道路等から江戸時代の絵図に見られる松平大膳家の中屋敷跡であることが推測されていました。中屋敷跡では、17世紀~19世紀のゴミ捨て穴をはじめ、多数の遺構・遺物が確認されました。
写真:第1遺構面完掘状況(北半部分)
最大のゴミ捨て穴は南北3.3メートル以上×東西4.5メートル,深さ約70センチメートルの大きなもので、中からは当時使われていた調理具・食器類や瓦などが出土し、その量はコンテナ(みかん箱)100箱以上に及ぶものでした。遺物は18世紀後半のものばかりで、一回で捨てられたと考えられます。箸や漆器椀をはじめ酒樽の栓のようなものが出土している他、魚などの骨も見つかっており、宴会後の後始末をしたと考えられます。
写真:ゴミ捨て穴遺物検出状況(部分拡大)
ゴミ捨て穴からは『高松市街古図(文化年間頃高松城下図)』(推定1804~1818年作成の写)の松平大膳家上屋敷部分に描かれた家紋(丸に中陰四つ葵=まるにちゅうかげよつあおい)と同じ家紋をあしらった瓦および理兵衛焼が出土しました。これにより、調査地が松平大膳家中屋敷跡であることが確実となり、絵図の記載が正確であることを裏付ける結果となりました。
写真:家紋入り理兵衛焼・家紋瓦
松平大膳家上屋敷跡発掘調査
平成14年度にビル建設に伴い、高松市丸の内(約970平方メートル)の発掘調査を実施しました。
調査地は、先立って行われた松平大膳家中屋敷跡の発掘調査地の北側に位置し、絵図等から上屋敷跡に相当することが確実と考えられていましたが、調査地の南部で中屋敷との境界となる東西方向の道跡とその側溝を確認するとともに、西端でも屋敷の境となる南北方向の道跡を確認しました。屋敷地の内部では南側の境界に石列や柱穴列が見つかり、その配置から東西に長い立派な長屋(門)跡が存在したことが分かりました。この門については、『高松市街古図(文化年間(1804~1818年)頃高松城下図)』に描かれている門が、時代的にも近いものではないかと考えられています。また初代松平藩主頼重によって敷設されたと言われる竹樋や箱桝等を用いた上水道の配水管が見つかっており、外から屋敷地内の井戸へ配水していたことが分かりました。
写真:第1遺構面検出石列(門の土台)
出土品の中には、武家の宴で使用する特殊な塩を入れる贈答用の容器である焼塩壺や、上級武士にふさわしい高級な中国景徳鎮産の輸入磁器、初期伊万里、唐津茶道具等の陶磁器などとともに、大膳家の家紋をあしらった軒丸瓦が出土しており、調査地が大膳家の屋敷地であることを示しています。その他、火災の痕跡を示すような焼土や、瓦礫と共に陶磁器、玩具類等大膳家の人達が使用していたと考えられる日用品を大量に廃棄した大型の土坑等が見られました。
写真:松平期土坑出土遺物
生駒期では、調査地の東半部に巨大なゴミ捨て穴が見られました。このゴミ捨て穴からは、上物の陶磁器に混じり漆器、箸、下駄、櫛等の木製品、さらに獣骨、巻貝等の食べかすが大量に出土しており、当時この一画が周辺に居住していた上級武士のゴミ捨て場として利用されていたことがうかがえます。
写真:生駒期ごみ捨て穴出土遺物
それ以前の時代では、中世末期、平安時代初頭、弥生時代後期の遺構・遺物をそれぞれ確認しており、当地が高松城築城以前にも人々が居住したり、活動の場となっていたことを知ることとなりました。
写真:平安時代と弥生時代の遺物
松平大膳家について
松平大膳家は、初代高松藩主頼重の子頼芳から分かれた支族で、代々2~3千石を藩主から賜わり、高松城南面の一等地に大きな屋敷を有していました。大膳家の人たちは、高松藩本家に養子入りして藩主の座(4代藩主頼桓)についたり、阿波(徳島)蜂須賀家にも養子に入り藩主(9代藩主宗鎮・10代藩主至央)になったりと権勢を誇りました。
写真:文化年間絵図(高松市歴史資料館蔵)
厩(うまや)跡
高松三越北側の駐車場を発掘したところ、東西3.9メートル,南北5.8メートル,高さ1.6メートル以上の石垣で囲まれた大型井戸が見つかりました。さらに、井戸の南側には昇り降りをしやすくするために、東西7.4メートル,南北2.1メートルの踊り場が設けられており、そこには玉砂利が敷き詰められていました。石垣はすべて花崗岩の割石を使っており、北西隅の石には○の中に+の記号と扇形の刻印が施されていました。井戸の主な使用時期は、扇形の刻印が生駒家の家紋であると考えられることや、出土した陶磁器などから、生駒家が治めていた江戸時代初期の頃であったと考えられます。このような特殊な井戸の発掘は高松城内で初めてのことであり、どのような目的で井戸が作られたのか今後の解明が期待されます。一方、この場所に井戸が造られた理由については、井戸の下に中世に埋没した川跡があって伏流水が豊富であったためと考えられます。石垣の隙間からは水が湧き出し、常に深さ50センチメートル以上も水が溜まっていました。
写真:大型井戸
調査地は、絵図などから生駒期の末期には「浅田図書」「生駒左衛門佐」の屋敷があり、次いで松平家初期には「間嶋半右衛門」「松田庄左衛門」の屋敷があったことが推測されていました。発掘調査でも、松田庄左衛門の弟の「松田庄九郎」の名が墨で書かれた木簡(荷札)が井戸から出土しており、絵図どおりに家臣たちの屋敷地であったことが分かりました。さらに、絵図によれば江戸時代後半には厩の馬場として利用されていますが、そこはには「井戸址」という添え書きも見られ、井戸が埋められた後も人々の記憶に残っていたことが分かります。
写真:木簡(「松田庄九郎」)
東町奉行所跡
コトデン片原町駅の東側は絵図によると、江戸時代前半には武家の屋敷地でしたが、後半には東町奉行所がおかれていたと推測されていました。発掘調査では、東町奉行所のものにふさわしい礎石(建物の基礎石)や堀が見つかりました。礎石は、安山岩の平坦な自然石を使用して整然と並べていました。そのうち南側のものは、東西約3.9メートル,南北約5.9メートルの建物が建っていたと考えられ、この建物の周囲には割石を敷き詰めた溝がめぐらされており、非常に丁寧に造られていました。また、北側のものは東西に長い建物が建てられていたと推定できます。一方、堀は調査地北端で東西約10メートル分を確認しただけですが、深さ1.6メートル以上、幅約8メートルと推定される大規模なものです。堀は途中で北へL字形に折れているようです。他地域でも、奉行所の周囲に大きな堀をめぐらせる例があることから、この堀は奉行所に伴うものであると考えられます。明治時代になると、この地に鶴屋町尋常小学校が建てられていたことが知られており、この小学校校舎の礎石列が発掘調査でも見つかっています。
写真:発掘調査地全景(中央で縦に2列並んでいるのが小学校校舎の礎石です。)
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