高松さんぽ(令和5年)
更新日:2023年11月28日
米セント・ピーターズバーグ市との姉妹都市提携60周年(12月号掲載分)
昭和51年(1976年)、高校2年生の夏休み、私は初めてアメリカ合衆国を訪れました。アメリカ生まれで、戦争中に日本に引き揚げてきた叔父が、30数年ぶりに生まれ故郷を訪問するのに、一緒について行ったのです。叔父の故郷はシアトル郊外の農業地帯。洗練された都市であるシアトルの魅力と、広大な牧草地帯を犬と馬が牛を追っかけるカウボーイ劇さながらの農場の開放感、屋外でのバーベキューパーティーのTボーンステーキの大きさなどに16歳の高校生であった私は圧倒され、目眩がしそうなほどのカルチャーショックを受けました。一方で、アメリカ独立200周年の記念コイン等を土産に買いながら、2000年以上の歴史がある日本の国や文化を誇らしく思えたことも確かです。
そんな私の初渡米の15年も前の昭和36年(1961年)、高松市は遠く離れたアメリカ合衆国の東海岸南部フロリダ州のセント・ピーターズバーグ市と姉妹都市提携を結びました。発端は、市議会で「夢多い青少年に海外研究の機会を与えるべき」という趣旨の質問がなされたことにあります。その思いに沿って、提携から60余年の間に、高松市から職員を研修派遣し、高松第一高等学校にはエッカード大学卒業生の英語教師の派遣を受け、両市の高校生が親善研修生としてホームステイを行い、障がい者の芸術活動を支援する団体が相互に交流を行うなど、様々で活発な交流が行われてきました。そして今回、コロナ禍を乗り越えて、これら親善交流事業等を継続、復活することが合意されました。
私の体験談を持ち出すまでもなく、若者にとっての国際経験は極めて貴重です。60数年前、未だアメリカ本土へ直行便すら飛んでいなかった時代に、青少年のためにと姉妹都市提携の決断をした先人の熱き思いに心から敬意を払いたいと思います。
2025年問題と未来社会(11月号掲載分)
最近、「2025年問題」という言葉をよく耳にするようになりました。何が「問題」なのでしょう。2025年には、人口ボリュームが最も多い「団塊の世代」(1947年から1949年生まれ)が全員75歳以上、後期高齢者になります。そのため、日本の人口の年齢別比率が劇的に変化して「超高齢化社会」となり、雇用や医療、介護、福祉など、様々な分野に大きな影響を与え、問題が急激に顕在化すると予想されているのです。
一方で、日本人の平均寿命は近年においてもさらに延伸しており、「人生100年時代」との指摘が全く大袈裟には聞こえないほどの長寿社会を迎えています。健康な高齢者も増えていて、日本人の健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)は74.1歳で、堂々の世界1位です。100歳以上の高齢者も53年連続で過去最多を更新していて、今年は9万2139人(9月1日現在。うち88.5%が女性)。ちなみに、高松市在住の100歳以上の方は350人ほどおられます。そして、「いま50歳未満の日本人は100年以上生きる時代を過ごす可能性が高いといえる」と、ベストセラーとなった「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略(東洋経済新報社)」で記されています。健康で長寿を全うできる社会は、それだけ豊かで幸せな社会であるとの認識を持つことも肝要なのではないでしょうか。
2025年には、大きな楽しみもあります。日本国際博覧会(大阪・関西万博)が開催されるのです。1970年に開かれた前回の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。それから55年経った2025年万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」です。「進歩と調和」に変わり、「多様性」や「持続可能性」、「デザイン思考」、といった言葉が未来社会の時代のキーワードとして浮かび上がってきます。
本市においても、「2025年問題」を「未来社会」の入り口の関門として捉え、「いのち輝く明るい超高齢化社会」をデザイン出来ないものかと考えています。
10分間の大花火(10月号掲載分)
10分間という短い間、クライマックスの連続で、華やかで賑やかな花火でした。そして、終わった後は儚さが際立ちました。
高松の夏の風物詩「第56回さぬき高松まつり」が今年は三日間の全日程において開催され、ほっとしています。特に花火大会は、悪天候とコロナ禍による中止が続いたため、実に5年ぶりの開催であり、多くのファンが待ちに待った再開でした。ただし、主たる観覧場所であったサンポート高松の広場には現在、県立アリーナが建設中で、従前以上の混雑と混乱が予想され、中止も検討されていました。しかし、多くの人の花火に懸ける思いは強く、さわりだけでも実行できないかと、3000発の花火を10分間に凝縮して打ち上げることとなったものです。また、演出として初めて音楽とのコラボレーションが試され、エドワード・エルガー作曲の行進曲「威風堂々」の荘厳な響きに合わせて次々に華麗に花火が舞い上がりました。結果、例年より少なめとはいえ、約12万人もの皆様に高松まつりの花火を楽しんでいただけました。
見物客の皆様の声を報道から拾ってみると、「音楽があって、花火が舞って迫力があった」、「今年の夏で一番綺麗な花火だった。感動した」といった称賛や「もう少し見たかった」、「10分は短いなあ」といった感想をいただいています。こうした声を来年以降の展開に役立てたいと思います。
そして、毎年花火大会に合わせて高松港に入港していた日本最大のクルーズ船「飛鳥Ⅱ」も今年はお約束通り、横浜から駆けつけてくれました。初めて入港した時、乗船員の方が、「自分は世界中の花火を見てきたが、これだけ間近に見ることのできる高松の花火が一番だ」と言っていました。もちろん今年も乗船客は、デッキから花火を間近に見て、大喜びだったということです。
猛暑日が続いた今年の暑い夏。夜空に開いた大輪の花火は、10分間という短い間だったからこそ、余計にその儚さを際立たせて散っていきました。それではまた来年、と余韻を残して。
合言葉は 協働(working together)(9月号掲載分)
去る7月7日から9日の3日間、本市において、「G7香川・高松都市大臣会合」が開催されました。
今年、日本が議長国に当たっているG7サミット(主要7カ国首脳会議)の関係閣僚会合の一つである「都市大臣会合」の舞台が高松市となったのです。本市における関係閣僚会合の開催は、7年前の「G7香川・高松情報通信大臣会合」に続いて2度目です。2度とも四国では、唯一の開催でした。それだけ、本市が国際会議等の開催能力において、高い次元の機能を持っているということでしょう。サンポート高松地区では、香川県立アリーナの整備も進んでおり、今後、MICE(マイス)と呼ばれる会議やイベント等の誘致にも弾みがつくものと期待しています。
都市大臣会合の共通テーマは、「持続可能な都市の発展に向けた協働」でした。そして、「ネット・ゼロ、レジリエンス」「インクルーシブ」「デジタル」の3つの項目が設定されました。横文字が並んでわかりにくいところがありますが、ネット・ゼロと言われる脱炭素社会のあり方等、地球規模で取り組むべき課題は、都市をいかに持続可能な形で発展させていくことができるか、という問題に収斂(しゅうれん)される、との趣旨のようです。昨年の初回は日本の敗戦処理を決めた宣言が出された、旧東ドイツの都市ポツダムで行われました。次いで今年、高松での開催です。歴史に名が残る、というだけでも開催の意義は大きかったと思います。また、会合の成果として「コミュニケ」が取りまとめられるとともに「持続可能な都市の発展に向けた協働に関する香川・高松原則」も公表されました。G7の会合で合意された内容が「高松」の名前を冠した形で世に出される、ということも大きな意義を持つものです。
最後に、「香川・高松原則」の3項目を記しておきます。合言葉は「協働(working together)」です。そして、「地方」、「市民」が主役です。原則1:地方政府を支援し協働する。原則2:市民社会、民間セクター、その他の主体の参画を得て協働する。原則3:新興国や開発途上国を含む国際交流の支援を通じて協働する。
祝:都市景観大賞受賞(8月号掲載分)
「大きな共感を得て大賞に選ばれたのは、かつての名声を失いつつあった著名な観光地を見事に甦らせた「高松市屋島地区」である」と審査委員長の陣内秀信氏が総評で高らかに宣言されています。令和5年度の都市景観大賞(都市空間部門)を屋島が受賞しました。
現地視察にも来ていただいた佐々木葉早稲田大学教授は、審査講評の中で「雄大な自然の魅力と楽しかった記憶を蘇生させるための取り組みが、立場を超えたデザインの力によって成し遂げられた」と記されており、修景された新たな景観の意義と感動を伝えています。そして、「本事例はまさに持続性のある景観形成の先駆的モデルであり、多くの学びを得た」と過分なお褒めをいただきました。
都市景観大賞が今の表彰制度になった平成23年度以降、都市空間部門の大賞受賞は、四国では平成28年度の松山市のロープウェー街・大街道周辺地区に次いで2例目です。ちなみに平成25年には、本市の高松丸亀町G街区地区が優秀賞を受賞しています。
屋島活性化事業の原点である「屋島会議」の設置は、平成23年8月でした。そして、その答申を受け、具体的な事業を掲げた「屋島活性化基本構想」を平成25年1月に策定し、同時に屋島に関わる官民関係者、有識者が一同に会し、基本構想を推進する組織として「魅力ある屋島再生協議会」を設立し、今日に至っています。
「屋島会議」を作る前に、このコラムに「『大屋島』の復活を願って」と題した一文を認めました。日本で最初の国立公園として瀬戸内海国立公園が指定され、屋島が天然記念物と史跡にも指定された翌年、昭和10年発行の「大屋島」と題された小冊子の中に「屋島は風光に、史蹟に、天然記念物に、信仰に諸要素を備えて、海上公園の王座として、国宝的価値を有するに至ったのである」とあります。まさに、この国宝的価値を蘇生させるための取り組みとして、屋島に関わる官民の活動が評価され、今回の「都市景観大賞」獲得に至ったのだと関係者とともに喜んでいます。
追悼:“怪童”中西太様’(7月号掲載分)
齢90歳になろうというのに、いつも少年のような目を輝かせて「市長、元気か」と、にこやかに声をかけていただきました。去る5月11日に亡くなられた元プロ野球選手の中西太様です。
このコラムの再開にあたり、辛く悲しい出来事を題材とすることにためらいがありましたが、どうしても一言追悼の言葉を述べさせていただきたく、筆を執りました。
中西太様は、高松第一高等学校で、春夏あわせて3度、甲子園に出場し、球場を沸かせる、力強い打撃から「四国の怪童」と呼ばれておりました。そのあだ名は生涯に渡り引き継がれました。
西鉄ライオンズに入団すると、高卒ルーキーとしては異例の、即レギュラーの座に定着し、史上最年少の20歳で「トリプルスリー」(打率3割、ホームラン30本、盗塁30以上)を獲得したほか、4年連続を含むホームラン王5回、首位打者に2回、打点王に3回輝くなど、不滅の大記録を達成されました。
現役時代の中西様の、うなるスイングと打球の速さは桁外れで「遊撃手が、ジャンプして捕れそうな打球が、ぐんぐん伸びてホームランになった」など、強打の逸話は、枚挙にいとまがなく、その豪快な打撃で多くのファンを魅了しました。引退後も、打者育成の手腕が高く評価され、イチロー選手を始め、数多くの名だたる選手を育て上げた監督、コーチとして、プロ野球の発展にも御尽力されました。
色紙には、いつも「何苦楚(なにくそ)」という言葉が書かれてありました。「今の苦労が、将来の礎になる」といった趣旨で、その言葉を大切にされてこられた、ということです。自らを奮い立たせる中西様の呟きが聞こえるようです。本市では「“怪童〟中西太記念コーナー」を、中西様が、生まれ育った松島町にあるこども未来館に開設しております。ぜひ一度足を運んでみて下さい。
改めまして、故“怪童〟中西太様が、これまでずっと高松市民に夢と感動を与えてこられたことに敬意を表しますとともに、心からの御冥福をお祈り申し上げます。
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