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特別史跡 讃岐国分寺跡

更新日:2020年12月15日

特別史跡 讃岐国分寺跡


史跡地(史跡公園)全景

 地境などの痕跡から、昭和3年には、現国分寺境内を含む東西約330m、南北約227mの範囲が、讃岐国分寺跡として国史跡に指定されました。このとき讃岐国分尼寺も国史跡に指定されています。そして、昭和27年には保存状態が良好であることから特別史跡に指定されています。
 これまで42回に及ぶ発掘調査が実施されています。特に、昭和58~平成3年にかけて実施された整備事業を伴う発掘調査では、築地塀跡、回廊跡、鐘楼跡、僧房跡、掘立柱建物跡等が確認され、境内に残る金堂跡や塔跡などの礎石と併せて、讃岐国分寺伽藍の概要が明らかとなり、讃岐国分寺跡の整備の基本的資料が得られました。付属施設なども確認されており、今後の継続的な調査が期待されています。

讃岐国分寺の伽藍配置

 寺院の主要な建物を伽藍(がらん)といい、時代や地形、宗派などによって異なりますが、その配置には一定のきまりがみられます。これまでに明らかとなっている讃岐国分寺の伽藍を紹介します。
 東西約220m、南北約240mの範囲が讃岐国分寺の寺域であったことが、発掘調査でわかりました。寺域の中軸線から西寄りに塔跡や金堂が建てられています。南から南大門、中門、金堂、講堂、僧房が一直線に並び、中門と金堂を結ぶ回廊に囲まれた区画の東側に塔をおく「大官大寺式」の配置であったことが明らかとなっています。
 また南大門から発掘調査により寺域の周囲には、築地塀(ついじべい)と呼ばれる大きな土塀が巡っていました。下図は、現段階で想定される創建時の国分寺の伽藍配置図です。水色で表示されている場所は、平成3年度までに実施した発掘調査範囲です。
※讃岐国分寺跡では経蔵跡と思われる遺構は発見されていません。

金堂跡

 金堂とは現在でいう本堂にあたり、伽藍の中心となる建物です。ここに本尊が安置され、様々な儀式や法要が行われていました。現在の国分寺本堂の前に32個の礎石が残されています。礎石の現状などから、桁行(けたゆき)7間(28m)・梁行(はりゆき)4間(14m)の建物であったと推定されています。これは奈良の唐招提寺金堂と同規模です。礎石には安山岩の自然石が用いられています。


金堂跡の礎石

塔跡

 金堂跡の東南には15個の礎石が残る塔跡があります。金堂とともに伽藍の中心となる塔は、元来、釈迦の遺骨「仏舎利(ぶっしゃり)」を納めるために建てられたものです。中央のひときわ大きな礎石は、心柱を支えていた心礎(しんそ)で、中央には約40cmのほぞ穴があけられ、現在この上には鎌倉時代後期の作といわれる石塔があります。礎石の現状から建物の規模は約10m四方と推定されています。礎石は心礎を含む2石が花崗岩で、それ以外はすべて金堂と同じ安山岩の自然石です。


塔跡の礎石

講堂跡

 講堂は僧侶たちが経典の講義や法要を行う建物。現在の国分寺本堂は鎌倉時代中期頃に建立されたもので、この本堂を支える30個の礎石は、講堂の礎石を動かし、規模を縮小している可能性が指摘されています。礎石は金堂跡や塔跡と同じ安山岩の自然石です。

中門跡

 発掘調査で確認された回廊の跡などから、現在の仁王門の場所に中門が建てられていたと推測されます。

回廊跡

 回廊は建物の間をつなぐ屋根のある廊下で、讃岐国分寺の場合、回廊の柱跡や礎石は確認されていませんが、北西隅と南東隅で回廊基壇(きだん)を確認しており、塔を取り囲むように金堂と中門を結ぶ形であったことがわかります。
 発掘調査の結果から、基壇の幅はおよそ6m。北西隅の基壇跡に透水板(舗装ブロック)を敷き明示しています。


回廊跡

僧房跡

 これまでの調査で最も特筆すべきものが僧房跡の調査です。僧房跡は、現本堂の北側に位置し、もとは水田でした。
 発掘調査の結果、東西88m、南北16mの基壇の上に建つ桁行(けたゆき)21間(84m)、梁行(はりゆき)3間(12m)の東西棟礎石建物であることが分かりました。
 見つかった礎石は、大部分が完存し、柱間寸法は桁行(けたゆき)梁行(はりゆき)ともに4m等間になりました。
 そして、最も特筆すべきことは、礎石の間に凝灰岩(ぎょうかいがん)の切石や(せん)などで構成される地覆石(じぶくいし)と呼ばれる柱間装置が残っており、建物内部の間仕切を復元することができました。この柱間装置は中央間から東3間、東6間、東9間の後方2間の礎石を取り囲むように一定間隔で設けられていました。中には切石の内角を切り欠いたものもあり、木材のホゾを挿入していたと考えられます。
 また台形をした(せん)を並べて、唐居敷座(からいしきざ)を構築しているものもあり、出入口の扉の存在を想定させます。柱間装置のない礎石間には、原則として土壁などの構造物が想定され、桁行(けたゆき)3間を単位とする(ぼう)を復元することができました。
 一方、建物の中央部には先の柱間装置はなく、中央間の中軸線上には南北方向の瓦で構築された溝が見つかりました。そのため、中央部分は桁行3(けたゆき)間、梁行(はりゆき)3間がひとつの部屋となり、前後中央に出入口を設けていたと考えられます。この中央の空間の性格は明らかではありませんが、薬師寺や法隆寺の食堂(じきどう)と僧房の配置関係や鎌倉時代に再建された東大寺の戒壇院(かいだんいん)の北僧房には、中央に本来、食堂(じきどう)にあたる談議所(だんぎしょ)があることなどから、食堂(じきどう)と考えらえています。
 以上のように、讃岐国分寺の僧房は桁行(けたゆき)中央方3間を食堂(じきどう)的な共同利用空間として、その東西に桁行(けたゆき)3間を単位とする(ぼう)と呼ばれる空間が設けられ、各房には、4室の個室が設けられています。これらの部屋割りから24の個室があることとなり、当時、各国分寺に配属された僧侶の数とほぼ一致することも分かりました。
僧房は出土した瓦や礎石のかさ上げなどの状況から、創建後、9世紀中頃と10世紀中頃に瓦の葺き替えなどの修繕がなされたと考えられます。
 11世紀頃まで僧房はその役目を果たし、その後、建物はなくなってしまっていたと考えられます。鎌倉時代以降、井戸が掘削され、伽藍の修繕のための鋳造(ちゅうぞう)鍛治(かじ)などが行われた痕跡があることから、僧房の跡地は付属施設として使用されたようです。主要伽藍を除く、築地塀(ついじべい)などもおおむね11世紀頃には修繕されなくなっていたと考えられます。

鐘楼跡

 講堂跡の東北東で確認された礎石建物の遺構は、鐘楼跡と考えられています。東西2間、南北3間の建物で3個の礎石が原位置に残っていました。発掘調査後埋め戻し、建物跡・基壇の範囲を一段高くし、僧房跡西半分と同様、礎石の位置にほぼ同質の石材を置いて表示しています。対称的な位置に経蔵が配置されていることを想定し、発掘調査が行われましたが、遺構は確認されていません。
※対称位置は西側築地塀より外の位置になります。

掘立柱建物跡

 講堂跡の西側で、他の建物とは違って礎石を使った建物ではなく、地面に穴を掘り、その穴に柱を埋め込んだ掘立柱建物が発見されました。役割は解明されていませんが、僧房を補完する施設と推測されます。発掘調査の結果から、南北7間(20.6m)、東西4間(11.8m)の規模であることがわかりました。ここでは、建物と考えられる範囲を一段高く盛り、柱穴のところに木材をすえ、その位置に柱があったことを表現しています。


掘立柱建物跡

築地塀跡

発掘調査の結果、寺域全体を囲むように築地塀がめぐり、その外側には、大溝(おおみぞ)も掘られていたことが確認されました。東西約220m、南北約240m(大溝の中心から中心まで)の規模の寺域であったことが明らかになっています。発掘調査の結果から、築地本体の幅は1.8m程度と考えられます。検出された遺構をもとに、東側と西側の築地塀の一部を各々30mにわたり復元しています。築地塀本体の構築には版築(はんちく)技法を採用しました。版築(はんちく)は古代の寺院などに採用された地盤改良で、何層にも土を盛り、その度に付き固める工法です。30mの築地塀を復元するために、作業員の人数はのべ855名ほど必要でした。復元した築地の屋根は発掘調査で出土した瓦をもとに再現した瓦を()いています。


復元された築地塀(東側)

讃岐国分寺の歴史

 天平13年(741)、聖武(しょうむ)天皇は各国ごとに官営の僧寺と尼寺を建てることを命じました。正式名称を僧寺は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺を「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」とし、僧寺に僧侶20人、尼寺に尼僧を10人配置することを定めています。そして各国に建てられた国分寺、国分尼寺の頂点として奈良に東大寺・法華寺を建立しました。当時流行していた疫病や天災・内乱など社会不安に対して、仏教の力で国を安定させ、治めていくための政策の一つでした。国分寺は祈りの場であるとともに文化・学問の中心でもあったことから国の華とも称えられました。
 古代において香川県は讃岐国と呼ばれていました。この讃岐国の国分寺は現在の高松市国分寺町国分に建立されています。国府から北東2.5kmの場所であり、国分尼寺は、国分寺から北東約2kmのところに建立されています。 讃岐国分寺は、天平勝宝8年(756)、聖武天皇の一周忌のため、灌頂幡(かんじょうばん)などが配られた26カ国の中に含まれていたことが『続日本紀』に記されており、この時点でおおよその建物ができていたことが推測されます。 国の庇護(ひご)を受けて運営されていたものと考えられますが、古代国家の体制の変化に伴い、国家の庇護を失い困窮し、10世紀末には僧房で僧侶が生活しなくなり、13世紀には、僧房とは違う土地利用がされていたことが明らかとなっています。
 中世の国分寺の様子については、明徳2年(1391)の「大和西大寺諸国末寺帳」にその名が見えます。聖武天皇の娘孝謙(こうけん)天皇によって建立された西大寺は、鎌倉時代、叡尊(えいぞん)により真言律宗寺院として再興され、荒廃した諸国国分寺を勧進により再興して末寺としました。讃岐国分寺もこの流れの中で、国家鎮護の寺から、民衆の信仰に支えられた寺へと変わっていったようです。
 現在の国分寺本堂が建立されたのもこの頃です。また本堂内部には、永正10年(1513)頃から天文7年(1538)頃にかけての廻国聖(かいこくひじり)たちの落首(らくしゅ)が残されており、四国の辺地(へじ)を巡る人々の姿をうかがい知ることができます。  
 近世に入ってから真言宗寺院として中興され、寛文年間(1661~1673)には高松藩主松平頼重(よりしげ)によって修復がなされ、文化年間(1804~1818)にも藩主松平頼儀(よりのり)により本堂の修復がなされています。嘉永7年(1854)「讃岐国名勝図会(さぬきのくにめいしょうずえ)」や弘化4年(1847)「金毘羅参詣名所図会(こんぴらさんけいめいしょずえ)」には旧跡とともに紹介されています。
 各国の国分寺は衰退し、廃絶、移転をしていますが、讃岐国分寺は、大名の庇護や八十八ヶ所霊場の札所として影響もあり、現在まで法灯が続く、貴重な寺院です。

現在の国分寺

 現在の国分寺は、古儀真言宗御室派の寺院であり、境内には札所を巡るお遍路さんの参拝でにぎわっています。国分寺には多くの文化財が残されており、その中でも国分寺本堂・木造千手観音立像・銅鐘は国の重要文化財に指定されています。


現在の国分寺 仁王門

国分寺本堂

桁行(けたゆき)5間・梁行(はりゆき)5間の本瓦葺の入母屋(いりもや)造りの建物です。建築年代は鎌倉時代中期をくだらないとされています。内部は南側桁行2間分を外陣とし、のこり3間分の左右に脇陣を設け、のこりを内陣とします。そのほぼ中央に須弥壇(しゅみだん)を置き、壇上の厨子(ずし)の中に本尊の千手観音立像を安置しています。昭和16年から18年にかけて解体修理が行われ、現在にいたります。昭和25年、国の重要文化財に指定されました。


国分寺本堂

木造千手観音立像

 平安時代後期の作といわれ、本堂の厨子内に安置され、現在は秘仏となっています。永長元年(1096)に諸国に丈六(1丈6尺/約4.8m)の観音像を造立し、国分寺に安置せよとの命が出たとの記載が、関白藤原師通(もろみち)の日記「後二条師通記」にあるそうですが、この記述との関係が注目される仏像でもあります。明治34年、国の重要文化財に指定されました。

銅鐘

 香川県内で最古の鐘で、鐘の身の高さは115.4cm、口径89.7cm、昭和19年国の重要文化財に指定されました。いくつかの古様式な点があり、平安時代の前期に造られたものと推定されます。この銅鐘にまつわる伝説ものこされています。


銅鐘

年表

年号(西暦等) 出来事
天平13年(741年) 聖武天皇により国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔が出される
天平勝宝8年(756年) 讃岐国分寺が存在していることがわかる(『続日本紀』に記録がある)
仁和2~寛平2年(886~890年) 讃岐国司の菅原道真が国分尼寺を訪ね、漢詩「法華寺白牡丹」を詠む
鎌倉時代中期頃 現在の国分寺の本堂(国の重要文化財)が講堂の跡に建てられた
明徳2年(1391年) 大和国西大寺末寺帳に讃岐国分寺の名が記載されている
天正年間(1573~1596年) 天正年間に土佐の長宗我部軍による讃岐侵攻天正10年(1582)土佐軍が聖通寺城と勝賀城を攻める際、国分寺が陣所となったという。国分尼寺は天正年間の兵火により衰退したという
慶長14年(1609年) 慶長14年2月2日に生駒家2代藩主・一正によって鐘代として荒田一町が寄進される。同年3月14日付で、鐘が国分寺に返却される
寛文年間(1661~1673年) 高松藩主松平頼重(よりしげ)によって大修復がなされる
元禄8年(1695年) 国分寺末寺帳には、それ以前に33箇所の末寺があったと記載されているなお、国分尼寺の場所には小堂があるとの記載が国分寺末寺帳にみられる
文化年間(1804~1818年) 高松藩主松平頼儀(よりのり)により本堂の修復がなされる
弘化3年(1846年) 国分尼寺跡に法華寺が再興される
明治34年(1901年) 現在の本尊である木造千手観音立像が国宝に指定される(旧法)現在は国の重要文化財に指定されている
明治37年(1904年) 国分寺本堂が国宝に指定される(旧法)
大正11年(1922年) 府中山内瓦窯跡が国史跡に指定される
昭和3年(1928年) 讃岐国分寺跡および讃岐国分尼寺が国史跡に指定される
昭和16年(1941年) 本堂の解体修理が開始される(昭和18年完了)
昭和19年(1944年) 銅鐘が国の重要文化財に指定される
昭和25年(1950年) 国分寺本堂、木造千手観音立像などが重要文化財に変更される
昭和27年(1952年) 讃岐国分寺跡が特別史跡に指定される
昭和58年度(1983年度) 本格的な整備事業に伴う発掘調査の開始
平成元年度(1989年度) 僧房跡覆屋の整備完了
平成2年度(1990年度) 築地塀の整備完了
平成3年度(1991年度) 掘立柱建物や回廊跡などを発掘調査により確認
平成5年度(1993年度) 伽藍配置模型の完成  讃岐国分寺跡資料館建設および開館
平成17年度(2005年度) 国分寺町が高松市と合併したのに伴い高松市讃岐国分寺跡資料館となる

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