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西消防署消防博物館

更新日:2018年3月1日

西消防署綾川分署展示物

消防マークの由来

雪の結晶の拡大図をもとに、日章を中心に、水管、管そう、筒先からの放水を配置したもので、雪の結晶は水、団結、純潔を表し、水管、管そう、水柱は火災を鎮める道具をあしらっています。日章は火であるとともに万物を保護し、育成する太陽を表しており、消防は市民の太陽でなければならないことを意味しているものです。

救急マーク(スターオブライフ)の由来

「スターオブライフ」の由来は、ギリシャ神話にあります。太陽神アポロンの息子、アスクレピオスはケンタウロスのケイロンから医術を教えられ、死人まで生き返らせてしまう名医になった。しかし、それが、死者の国のハデスの怒りをかってしまい、ハデスの要求を受けたゼウスによって雷で焼殺されてしまう。のちに彼は復活させられてオリュンポスの神々の仲間入りを許され、医神として星になり、人々の尊崇を受けることになる。
アスクレピオスの持っていたヘビの巻きついた杖が医学のシンボルになり、スターオブライフの起源となったそうです。

「賢者の物語」

昔、賢者が砂漠を旅していた。
いつしかたべものも底をつき、後は死を待つのみとなった夜、賢者は夢を見ました。夢に現れた白い蛇は言いました。
「あなたの持っている杖で砂をほってみなさい。」
目が覚めた賢者は言われた通りに砂を掘ってみました。すると、みるみる水が湧いてきて賢者は命を救われたそうです。
蛇は「知恵」、杖は「命」を表し、救命救急のシンボルマークとして親しまれています。

「火の用心」の由来

記録の上で「火の用心」という文句の一番古いものは、天正3年乙亥(1575)5月、織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼を攻略した長篠の合戦に臨み、家康の家来の本多作衛門重次が国元の奥方に送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の陣中便りといわれており、お仙とは、重次の長男仙千代のことで、重次が40歳を過ぎたときに生まれた大事な跡取りのため、非常に気にかけていました。また、馬は当時戦には欠かせないもので、時には人の命よりも大事にしていました。
火の用心という言葉がいつごろから使われはじめたかは定かではありませんが、慶安元年(1648)に出されたお触れに、次のようなものがあります。
「町中の者は交代で夜番すべし。月行事はときどき夜番を見回るべし。店子たちは各々火の用心を厳重にすべし」とあります。本多作左衛門重次が火の用心という言葉を使ったのは、一般に使われだした時よりも大分前のことで、彼が第一号の使用者ということになるかもしれません。
写真は、仙千代こと後の本多成重が城主となった越前国丸岡城址の一郭に建てられている「火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の石碑です。

火の見やぐらと半鐘(はんしょう)

火の見やぐらは「消防」のシンボルとなっているが、火の見やぐらがはじめてできたのは、江戸時代享保の頃といわれている。当初江戸の十町に火の見が作られ半鐘が下げられて、火事や災害をいち早く皆に伝える役目をしていた。時には早うち、時にはゆっくり。現在のように高層建築物に遮られることもなく、大いに役立っていたと想像できる。。今は使用される事もないようだ。
右の写真をクリックすると拡大されます。

纏(まとい)

町火消が、組の目印として使用していました。また、町火消が誕生して間もなく享保5年4月、大岡越前守が町火消に纏を持たせて士気の高揚を図ったそうです。
大岡越前守が町火消を組織した当初は、いろは48字48組であったが、後に、「へ」は屁に通じ、「ら」は陰語、「ひ」は火を表すとして、これに変わってそれぞれ「百組」「千組」「万組」がおかれた。また「ん」も、これに変わって「本組」が編成され別働隊として活躍した。

竜吐水(りゅうどすい)

消火用手押しポンプは、小型のものを総称して竜吐水と呼ばれている。水神の化神である竜が水を吐き出して火を鎮めることを願っての命名と思われる。江戸時代後半から用いられた消防用具で、写真のものは箱の中に押上げポンプの装置をつくり、横木を上下させる事で箱の中の水を引き出す仕掛けになっており、放水距離はせいぜい10数メートルであった。羽床上消防団現在の綾川町消防団が昭和20年頃に使用していたものです。

腕用ポンプ

腕用ポンプは、火災の際にこれを運んでいき、手動で放水しました。左右にホースを付ける箇所があり、それぞれ水を吸う側、放水する側に分かれています。この写真の腕用ポンプは、瀧宮消防組萱原部現在の綾川町消防団が昭和の初期から中期まで実際に現場で使用していたもので、綾川分署の玄関ロビーに展示しているものです。

「119」番のはじまり

昭和元年(1926)の自動式電話交換の開始と同時に「112」番が火災報知専用の電話番号に決められました。当時の電話機は回転ダイヤル式だったので、ダイヤル時間の短い番号という理由から「112」番が選ばれました。しかし、「1」と「2」はとなり合っていて間違いやすいため、昭和2年(1927)からは、3桁目に「9」を使い、現在の「119」番になりました。
注釈 この電話機の写真は、「香川県歴史博物館所蔵」のものです。無断転載はお断りします。

刺子(さしこ)

刺子とは布地を細かく、いわゆる雑巾刺しに縫ったものでつくった衣服の呼び名で、江戸時代に使われだし、防火被服を代表するものでした。
防火被服としての刺子は、木綿製の布地を二重三重に重ね合わせてつくられているので、吸水性に富んでいます。乾いたままでは火事場の熱を吸収してしまうので、火事場に向かう時は、頭から水をかぶって出場するため相当の重量になり、迅速に活動することはできなかったようです。
写真の刺子は、旧綾上町消防団が最近まで使用していたものです。

法被(はっぴ)

町火消の火事装束として、木綿製の長半天や法被が用いられていました。
火事装束に関連して、いろいろな呼び名があります。火消しの半天は、半纏とも書き、しばしば法被と混同されます。一般に、半天は江戸のものであって、法被は上方のものといわれています。
歌の文句に「紺の法被の襟元に、火消し頭と書いてある」とありますが、襟は反して着るものでした。
写真の法被は、襟の「羽床上消防組」から、昭和10年頃に作られたものと推定され、現場活動による焼けやつぎ当てが見られる。

お問い合わせ

このページは西消防署 綾川分署が担当しています。
〒761-2204 綾歌郡綾川町山田下1160番地1庁舎2階
電話:087-878-1111
ファクス:087-878-3196

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