更新日:2021年3月17日
現在、高松市東部下水処理場がある場所は、かつて屋島浜と呼ばれ、塩田がありました。屋島浜は、周辺部にある18世紀後半に開発された亥の浜・子の浜・潟元新浜と違い、半田善兵衛が明治39年に塩田工事に着手し、完成年については諸説ありますが、明治末年までには完成していたようです。
【屋島浜塩田跡地】
左【写真出典:「塩田のおもかげ」昭和48年3月25日発行・日本専売公社四国支社塩事業部作成】
右【令和元年12月8日撮影】
明治43年~ 第1次塩業整備事業により屋島浜塩田を整備。
大正 4年 屋島塩田株式会社が所有権移転登記。
大正 7年 東讃塩業購買組合の設立。
昭和48年 下水処理場用地として高松市土地開発公社が先行取得。
昭和53年 上記用地を高松市が償還取得して、東部下水処理場の建設に着手。
昭和57年 東部下水処理場の第一期工事がしゅん工し、同年11月に供用開始。
※ 屋島浜塩田の経営については、半田善兵衛の開発の後、大正4年に半田家を中心とした株式会社の形態をとり、9名の小作者によって行われました。大正7年に亥の浜・子の浜・潟元新浜とともに東讃塩業購買組合を組織し、その後変遷を経て屋島塩業組合により運営され、昭和47年に塩田廃止となりました。塩田廃止後は、公共用地(高松市東部下水処理場)に転用され、現在に至っています。
「屋島浜」の塩田は築造当初は「半學塩田」と呼ばれていたようで、門柱天端の梁に「半學塩田」の文字が刻まれていることは、この水門が屋島浜塩田の築造当初から設置されていたことを示すものです。その由来は、詳細は不明ながら塩田築造者の半田善兵衛の「半」と、隣の子の浜塩田の所有者の大久保一角の「がく」(学)にあやかって「半學塩田」になったものと伝わっています。
【旧屋島浜塩田水門】
【「半學塩田」の刻印】
旧屋島浜塩田水門は、高松市東部下水処理場敷地の北東部の汐入川に面して塩田内の余水の排出用に作られた単葉型の水門です。門柱の内側には、ロクロ(滑車)の心棒を掛ける軸受けが残っており、設置当初は扉体を上下させる手上げ式の水門だったものを後にハンドル式巻き上げへと改造していることがわかります。
【滑車の心棒の軸受け(南)】
【滑車の心棒の軸受け(北)】
香川県内で残されている塩田水門には、国の登録有形文化財(建造物)に指定されている宇多津町の旧仲舛塩田水門がありますが、元の位置から移築されています。旧屋島浜塩田水門は、水門を含めた周辺部の構造物が当時の状況で残されている稀有な事例として、高松における塩田開発の歴史を考える上で重要です。
【宇多津臨海公園内 旧仲舛塩田水門】
【ロクロ(滑車)の芯棒】
屋島浜塩田跡地は、下水道施設の関係者以外立入禁止区域内にあり、また、塩田跡地の周辺は、貯水池、河川への転落等の危険性があるため、侵入防止用フェンスを設置して立入りを禁じておりますが、平日の日中、フェンス越しに塩田跡地を見ていただくことは可能です。
なお、フェンスの外に屋島浜塩田の説明を記載したパネルを設置しています。