天守閣再建教室 その1

図2

愛媛県西部、伊予の小京都と呼ばれる大洲市に、平成16年9月、4層4階の天守が116年ぶりに甦りました。大洲盆地の中央を流れる、肱川のほとりの小高い丘に建つ大洲城は、静かな肱川の川面に再び往時の美しい姿を映し出したものです。

図3

大洲城は元弘元年(1331)に、宇都宮豊房が地蔵ヶ岳に城を築いたのが始まりとされています。激動の戦国時代を経て、藤堂高虎、脇坂泰治らが相次いで城主を勤めました。その後、元和3年(1617)に、米子より加藤貞泰が入城し、以後、13代に渡り加藤氏がこの地を治めました。

図4

加藤氏の入府以来、天守は大規模な改修もないまま明治21年に解体されました。一方、解体を免れ、今日まで残った4つの隅櫓は、昭和32年、重要文化財に指定され、昭和45年までに相次いで、解体修理を終えて現在に至っています。

図5

復元に当たり、大洲城の天守閣は、発掘遺構や古絵図を始め、明治21年以前に撮影された3枚の写真や棟梁家に残されていた「天守雛形」など、資料が比較的豊富で、往時の姿を正確に復元できる、全国でも数少ない天守でした。大洲市民の長年の夢と期待を乗せて、平成6年に天守閣復元事業が動き出しました。平成8年には復元構想が出され、平成10年から3年の年月を費やし、あらゆる資料の検討を重ねて実施設計が完了しました。

図6

総工費は、支給された木材費を合わせて13億円、延床面積は約140坪、1坪当たりの単価は約930万円で、使用した木材は総数450立法メートル、1立法メートル当たりの平均単価は約100万円という工事でした。

図7

実施設計がこれからという時期に、当初から復元を指導して来られた宮上茂隆さんが、急逝するという、非常事態に追い込まれたことから、設計は静岡県の掛川城や、宮城県の白石城などの木造城郭の復元を数多く手がけた設計者たちが、合同チームを編成して担当しました。施工は、文化財の修復や白石城など、数多くの城郭工事の実績を持つハザマが担当しました。

図8

大洲城は木造伝統工法による復元建物であるため、建築基準法適用外の工事です。このため愛媛県から、日本建築センターなどの外部機関による安全性の評価が、復元の許可条件として求められたため、強度試験を行い、柱や梁など仕口(しぐち:2つの木材の結合部)部分の回転剛性を確認しました。試験はつくばのハザマ技術研究所で行いました。工事の指揮をとった大工の棟梁が、復元に使用したものと同じ檜材で試験体を製作し、大洲市の担当者や設計者の立会いのもとに試験を行った結果、設計耐力を上回ることが確認されました。

図9

木造伝統工法による建物の復元は構造性能が明確になっていない点もあります。ハザマでは白石城天守閣の復元においても、土壁の耐力性能試験を行い木造伝統工法による建物の復元に力を注いできました。また、本年は木造重層建築である天守閣の、人力加振による振動実験を計画しています。このように明確になっていない性能を試験によって一歩一歩確認することにより、先人たちが残してくれた貴重な建築技術や文化遺産を未来に伝えていくことができるものと思っています。

図10

平成17年7月20日、大洲城は、国土交通大臣から「第7回国土技術開発賞―最優秀賞」を頂きました。史料や史実に基づいた城郭建造物の本格的復元事業、なかでも、高層の木造天守の本格的復元のために、今まで解明が置き去りにされてきた伝統工法の原理を明らかにし、先ほどの実験に裏づけされた設計手法確立したことと、大洲市民の皆さんが一丸となって復元し、大洲市を訪れる観光客数が確実に増えたことなどが、高く評価されたものであり、応募案件58件の中からの最優秀賞受賞です。

図11

さらに、平成17年8月4日には、内閣総理大臣表彰「第1回 ものづくり日本大賞」の栄誉を授かりました。我が国の産業・文化の発展を支え、貢献してきた「ものづくり(国づくり)」を継承し、伝統的・文化的な「技」を支えてきた「ものづくり名人」に対して、国土交通省、経済産業省、厚生労働省、文化庁の各分野から選考された25件59名が受賞しました。大洲城天守閣復元に携わったすべての人たちを代表して設計事務所の皆さんとともに、首相官邸に招かれ、賞状と副賞のメダルを頂いてまいりました。

図12

これより工事編に入ります。明治の解体から100年あまり、城山公園として親しまれてきた大洲城は、天守台石垣の一部が取り除かれており、その石垣の復元積みから始まりました。県史跡である既存石垣の一部を解体調査して、既存石の材質や加工の道具・工法の確認を行った上で、個数・寸法・形状など可能な限り、明治の写真に忠実な復元を行いました。

図13

取り扱う材料は大きく重量も重いため、木材の保管倉庫や加工場は、仮設計画の中でも重要なものになります。大洲城では床面積≒1,000平方メートル(280坪)、天井走行クレーン2基が付いた工場建屋を借り受けて加工場として使用しました。

図14

使用した木材は大洲市で先行調達した支給材です。雨腐れや虫食いを考慮してすべてを赤身材としました。調達した木材は総数量450立法メートル、一般的な木造住宅ですと20棟あまりになります。

図15

赤身材とは、丸太の心材(内部)でのみとれる、より耐久性に優れた希少な部位であり、油分を含むため仕上げの際の光沢も一際目を引きます。

図16

写真は、土台の仕口と継手の加工状況と、据付状況です。土台の材種は栗で1尺×1尺2寸長さ30尺(約9m)を使用しました。大量の乾燥した狂いの出にくい国産材は調達が困難なので、秋田県内の立木を調達し、生木の丸太のまま遠赤外線燻煙乾燥処理を施した上で製材したものを使用しました。

図17

柱は全部で160本あまりで、地元大洲を中心にした地場の檜を使用しました。中でも天守の中央部には、1〜2階と3〜4階をそれぞれ通し柱とした1尺1寸(約33cm)角芯柱が配置されており、大洲城の特徴の一つとなっています。

図18

この芯柱は、城主加藤家の菩提寺から寄付されたもので、このほかの柱材の大半も復元工事のために市民の皆さんが寄付して下さった材料であり、これらの寄付木が口火となって「城づくり市民総参加」の動きが盛り上がりを見せ始めました。

図19

重層を支える梁は110本を超え、大きいものでは丸太の直径が2尺7寸(約80cm)近い木材を使用しました。これだけの梁材を地元材で賄うことは難しく、営林局の協力のもと、長野県上松地方で木曽檜を調達しました。

図20

扱う木材は重量が重く、加工段階においても手で移動することは困難であり、さらには組立ての段階では手の汚れに配慮する必要がありまです。そこで、本工事では材料のかんな仕上げを完了した時点で、柿渋塗り(渋柿の青い果実からしぼりとった液を、防腐・防水剤として木材などに塗る伝統的な塗装)を施して、素手で取り扱っても汚れないようにして、大工さんの作業効率と安全確保を図りました。

図21

また、城郭などの木造大規模建築では、風雨から木材を守るため、素屋根という仮設足場兼屋根が必要になります。この素屋根は縦約24m×横約21m、高さは天守台からは約26m、石垣下からだと約31mもあり、完成する4層4階の天守をすっぽりと覆っていました。素屋根に組み込んだ天井走行クレーンにより、すべての建方と資材の所定の高さまでの運搬を賄うことができました。

図22

さらには、建物外部の作業ステージはとても広く、資材の下拵えや仮置きと、2万人以上の見学者を数え、延べ280回に及んだ見学会への対応に十分応えてくれました。なお、素屋根は古建築物件、特に文化財建造物の修復には必ずといっていいほど必要ですので、他の工事の参考になればと思っています。

図23

大洲市では、天守閣御用木の木曽檜の丸太と地元檜の柱材を台車に乗せて木曳式(きびきしき)を行い、市民に披露することによって、「城づくり市民総参加」を盛り上げました。本場木曽から4人の木遣り衆(きやりしゅう)が加わり、異様なくらい盛り上がった1日でした。

図24

工事は順調に進み、4層4階にちなんで、平成15年4月4日に上棟式(じょうとうしき)を行いました。そして翌日より2日間にわたり一般見学会が開催されました。

図25

基礎工事以降、素屋根に覆われて工事の進捗状況を見ることができなかった大洲市民にとって、初めて目にする天守の木組みは、大きな驚きと深い感動を与えたことと思います。

図26

大洲城では、着工当初から技術の伝承を目的として、マスコミや見学者の受け入れを行ってきました。また、インターネットによるライブカメラを設置し、工事風景のリアルタイム画像を広く配信しました。

図27

この見学会を含めて、延べ4回、8日間の見学会を開催しましたが、四国4県ばかりでなく、遠くは関東からも多くの見学者が訪れ、期待の大きさを改めて知らされました。


戻る

↑このページの上へ