歴史よろず庵   〜 平成13年8月掲載分

   本ページは平成13年8月1日・15日発行の『広報たかまつ』に掲載したものです。


 

       西方寺付近鉄道線路汽車進行中

 「西方寺付近鉄道線路汽車進行中」という表題はこの写真の裏に書かれていました。
 写真には、小型の蒸気機関車を先頭にした列車が写っており、郷東川を渡って「西浜ステーション」と呼ばれた当時の駅に到着しようとしているところを、明治時代に撮影されたものです。
 高松に汽車が登場するのは、明治30年(1897)のことで、「西浜ステーション」は、宮脇村に設けられていました。県立盲学校がその跡地になります。当時は、高松・琴平間を直通列車が四十分間隔で一日二十往復走っており、車内巡回販売のサービスや、食堂車を連結したこともあるそうです。
 明治43年には、高松駅が現在の浜ノ町に移り、同年の宇高航路の開設とあいまって、四国の玄関口としての地位を確かなものにしました。
 この写真は、高松の交通機関の歴史を知る上で貴重な一枚といえます。

※今回は、木太町の大鹿節子さんから寄贈され、寄贈者の祖父が撮影した写真を紹介しました。
 資料館では十月に開催予定の特別展に使用する古い写真を探しています。お持ちの方はぜひ、高松市歴史資料館までご連絡下さい。

西方寺付近を行く列車

平成13年8月1日掲載



 

       中央球場のホームベース 〜球児の汗と涙〜

 県下の高校球児の中には、中央公園が野球場だったことを知らない人もいると思います。彼らにとっては,生島町の県営球場が,晴れの舞台であり,甲子園への切符を手にする決戦の場でしょう。
 しかし,昭和57年4月までは,今の中央公園にあった高松市立中央球場が,高校球児の晴れの舞台でした。球児に限らず,早朝野球などを中央球場で楽しんだ人たちも多いのではないかと思います。
 中央球場が産声をあげたのは、昭和22年のことです。多くの市民の労働奉仕と資材提供を受けて造られ,空襲で壊滅的な打撃をこうむった高松市の復興のシンボルとなりました。
 それから30年あまりの間,野球王国香川の名のもとに,多くの名選手がここから巣立っていきました。特に昨年,高松市市民栄誉賞の表彰を受けられました中西太さんもその一人です。
 写真は,中央球場が使命を終えたときに埋設されていたホームベースです。表面に刻まれた多くの傷は,このベース上で,多くのドラマが展開されたことを雄弁に物語っています。

中央球場のホームベース

平成13年8月15日掲載


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