歴史よろず庵   〜 平成13年7月掲載分

   本ページは平成13年7月1日・15日発行の『広報たかまつ』に掲載したものです。


 

       讃岐瀬戸内阪出屋島漁場絵図 〜明治初期〜

 瀬戸内海は昔から,豊饒の漁場として知られていました。沿岸に住んでいた人たちは,魚を求めて船を出したに違いありません。
 しかし,江戸時代には漁師たちに限らず,藩と藩が絡んだ漁場争いが記録されているなど,豊かな海ゆえに多くの争いがあったものと思われます。それを回避するための知恵が,魚場の決定です。
 島や岬・山などの目立つ目標物を結んだ線「見通し」をもって海上に線を引く手法で,本来は境界のない海を分けています。
 この絵図には,東は屋島から,西は坂出・丸亀に至る沖合いの瀬戸内海が描かれており,「見通し」の線が書き込まれています。その全体は,「六番漁区」と言われ,面積に差があるものの,おおむね東から西ヘ「一番漁場」から「六番漁場」までに分割されています。さらに「六番漁場」は「第一号」から「第三号」に細かく分けられています。
 さて,本絵図の年代ですが,電信線が描かれていることから,明治10年(1877)以降で,同14年,上笠居(鬼無),中笠居(香西),下笠居に分村される笠居村が記載されていることなどから,この5年の間のものと推定できます。明治時代の初期の讃岐中央部・備讃瀬戸の漁場割を確定するために,作成されたものと思われます。

讃岐瀬戸内阪出屋島漁場絵図

平成13年7月1日掲載



 

       生駒高俊書状 〜二つの御家騒動〜

 今回は,高松城主・生駒家四代の生駒高俊の書状を紹介します。
 宛先の松平石見守とは,徳川家康の外孫で,播磨国山崎6万石の領主だった池田輝澄のことです。彼には高俊の妹が嫁いでおり,高俊とは義兄弟の関係にありました。書状の内容は,妹の出産に祝意を述べ,家臣を派遣すると書かれています。
 この義兄弟は,不思議な運命を共有していました。高俊の時代,生駒騒動と呼ばれるお家騒動が起こり,その結果,生駒家は秋田県の矢島に一万石で移されることになります。また,時を同じくして,輝澄の家中でも,お家騒動が起こったのです。そして,寛永17年(1640)7月24日,幕府の裁定によって,両者とも責任を問われ,同じ日に領地を召し上げられてしまいました。記録には,二つのお家騒動とその結末が残されているだけで,背景や葬り去られた事実は,今となってはわかりません。
 幕府の裁定を聞いた高俊の妹は,どんな気持ちだったのでしょうか。実家と婚家がその日を境に没落したのです。ともに堪忍料・1万石を与えられ,家名が存続したことが僅かな救いでしたが…。
 書状は,生駒家と池田家,両家をつないだ女性の悲しみを,歴史の闇のなかから訴えているように思えてなりません。

生駒高俊書状


   以上
 今度御誕生可有
 御座候旨承、目出度
 奉存候、然者為使者
 橋本忠右衛門与申者
 差下、御産前ニ
 付置申候、御左右
 次第、早々出船可仕と
 相待申候、前後之
 様子具ニ、被仰聞
 可被下候、猶近々
 可得御意候、恐惶
 謹言
       生駒壱岐守
  二月八日     高俊  花押
 松平石見守様
       人々御中

 香川史学第二十七号より


平成13年7月15日掲載


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