歴史よろず庵   〜 平成13年6月掲載分

   本ページは平成13年6月1日・15日発行の『広報たかまつ』に掲載したものです。


 

       井戸券 〜近代水道前夜〜

 高松藩主となった松平ョ重は,正保元年(1644),城下町の用水を確保するため水道を創設しました。江戸時代の水道はどこにでも造られたわけでありません。瀬戸内海沿岸に限れば,兵庫県赤穂,広島県福山,大分県中津,そして高松の四城下町のみです。
 高松では,水対策が早くから進んでいたと言えます。
 その水源となっていたのが,大井戸・亀井戸・今井戸などです。そのうち,亀井戸は鍛冶屋町の水神社にあった水源で,一般に新井戸と呼ばれ,その規模は南北に33間余(約60メートル),東西に8間余(約15メートル)の規模でした。
 今回の資料は,新井戸から配水された井戸一個の受水権利書で,高松市役所が今新町の「藤村ルイ」宛に発行しています。
 明治25年11月1日の発行であるため,初代市長赤松渡の印も数か所に見え,市制初期の貴重な資料です。
 また裏面には,昭和12年の権利譲渡まで書き込まれていることから,江戸時代に創設された水道は,戦前まで水道として,機能していたことがわかります。この水道が役目を終えるのは,高松が大空襲を受け,市街地が一面焼け野原になつた後のことです。
 一方,大正10年,現在の鶴市町御殿に新しい上水道のはじまりとも言える浄水道が完成しています。それ以降,戦前・戦中には,新旧両方の給水システムが共存していたことになります。

 
井戸券   「市長赤松渡印」と見える

平成13年6月1日掲載



 

       那須与一図 〜死を覚悟して放った一矢〜

 いまから約八百年前,高松市東部にある屋島は戦場となりました。もちろんみなさんもよくご存知の源平合戦の舞台です。
 『平家物語』によりますと,屋島での激しい戦いが,日暮れとともに終わろうとしていたとき,一艘の小船が沖からやって来ました。
 見ると,船上には手招きする官女とともに,扇が高く掲げられているではありませんか。
 これは扇の的を射よという平家の挑発なのだろうと,源氏勢は考えます。ここはメンツにかけても失敗するわけにはいきません。
 早速,源氏の大将・源義経は,弓の名人・那須与一に射落とすことを命じます。
 与一はまだ二十歳そこそこの青年です。あまりの大役に,一度は辞退したものの,義経に「嫌なら即刻この場を去れ!」と一喝されて覚悟を決めます。
 「ああ神様仏様,どうか,扇を射当てさせてください。そうでないと,私は源氏の恥となって,今後決して生きていくことができません。」そう祈りながら,与一は海に馬を乗りの入れ,決死の覚悟で矢を放ちました。すると見事命中,扇は海に散って,源平両軍の喝さいを浴びたのです。
 この資料は,源平屋島合戦のハイライトとも言える「与一と扇の的」の場面を描いています。作者の浮田一宸ヘ,江戸時代後期の絵師で,日本の伝統的絵画法(大和絵)の復興に努力した人物です。

那須与一図
全体
那須の与一図
部分

平成13年6月15日掲載


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