歴史よろず庵   〜 平成13年5月掲載分

   本ページは平成13年5月1日・15日発行の『広報たかまつ』に掲載したものです。


 

       高松築港平面図 〜明治時代の高松港〜

 この5月13日に,市民の期待を狙ってサンポート高松の一部が供用開始されます。
 高松港の整備は,高松市が市制を施行して間もない,明治30年に始まりました。
 それまでは,「城が見えます波の上」とうたわれたように,全国でも珍しい海城・高松城の石垣に波が打ちつける独特の景観が見られたものと思われます。
 しかし,その風景は高松市の発展とともに,大きく姿を変えました。今回の資料は,その証人とでもいうべきもので高松商運(株)よりご寄贈いただいた青焼図面です。明治34年に着工し,同37年に完成した高松港第二次拡張工事の竣工のものです。
 その記載によると,港内の水面積は約8万坪,浚渫総立坪は47,467坪,埋立総面積は32,647坪であったことがわかります。
 また,総工費は,326,738円66銭5厘で,明治33年度の歳出予算額が約8万円であったことを考えると,誕生して間もない高松市にとっては,市の命運をかけた大工事であったことがよくわかります。
 明治43年には,高松駅が造られ,さらには高松〜宇野間の連絡船が就航しました。陸と海の交通路がつながり,高松市が交通の要衝として発展する基礎が造られたのです。

             高松築港平面図および拡大図

平成13年5月1日掲載



 

       林叟 会心の一作

  この作品は,江戸時代の後期に屋島焼を創始した三谷林叟のものです。茶碗五脚,さましと急須各一点の,ままごと道具のようなかわいらしい器は,煎茶の点前に用いられる茶器セットで,いずれも春の味覚である筍をかたどっています。
 煎茶は,18世紀のはじめ頃に茶道として確立したとされ,作法,調度などの決めごとの自由さから,当時の文人・墨客などに好まれて流行することとなりました。
 江戸中期には池大雅や上田秋成などが,化政文化の爛熟期から幕末にかけては田能村竹田,頼山陽ほか多くの文人が,煎茶を囲み詩文・書画の話題に興じたということです。
 作者の三谷林叟は,宝暦2年(1752)に現在の牟礼町で生まれています。はじめ源内焼の陶工として,堺屋源吾(平賀源内の甥と伝えられる)の下で修行を積み,享和3年(1803)52歳の時,8代藩主松平ョ儀の命により,屋島西潟元村に窯を開いて屋島焼を創始しました。
 さましの底裏には,林叟の作品を示す「屋島」とともに丸囲みで「仁清」の刻印があります。仁清とは,17世紀の後半,京都洛北の御室に活躍し,丸亀京極藩とも深い関わりを持った野々村仁清のことで,現在,国宝・重要文化財とされている多くの名品を残しています。
 この作品にみられる「仁清」の刻印から,「仁清にも引けを取らないぞ」という林叟の自信が見て取れます。

 同資料は,志度町在住の安達氏から寄贈を受けたもので,現在歴史資料館常設展示室で展示中です。

屋島焼煎茶器 銘文

平成13年5月15日掲載


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