歴史よろず庵   〜 平成14年3月掲載分

   本ページは平成14年3月1日・15日発行の『広報たかまつ』に掲載したものです。


 

       讃岐国往還絵図(さぬきおうかんえず)〜明治五年の地図〜

 この地図は、讃岐の国を東から西に貫く道路を記載したもので、明治5年(1872)9月に伴善作という人物の測量をもとに作成されました。地図といっても絵師の森直樹が絵筆をとっていることから、絵図の要素を持っているといえます。
 道路を中心に通過する村を書き、村内における道の長さを「丁(ちょう)」と「間(けん)」の単位を使って記入しています。なお、高松城下では常磐(ときわ)橋を基準とした長さを使用しているため、同地を起点として道路が伸びていた事が推測できます。全長は、26里12町29間半で、ここでは1間=6尺3寸(普通は、1間=6尺)としているので、約108キロメートルということになります。
 この地図が作られる前年(明治4年)に四国最初の津田郵便取扱所が設置されていますが、当時の郵便の配達賃は距離や地形で定められ、江戸時代の飛脚制度の名残を残すものでした。村ごとの距離が詳細に書き込まれている事や、「郵便」などの記載がいくつかあることから、この地図は郵便事業を円滑に進めるために作成されたと思われます。

※歴史資料館で三月十日まで開催中の特別展「近世の高松画壇」で同資料の一部を公開しています。

讃岐国往還絵図 東ヨリ三 全体
讃岐国往還絵図 東ヨリ三 部分

平成14年3月1日掲載



 

       全国産業博覧会 ポスター

 昭和3年(1928)3月20日から5月10日まで、高松城跡を会場に全国産業博覧会が開かれました。
 この博覧会は、大正期からの高松港修築工事が完成に近づいたこと、また四国内の鉄道網の整備が進んだことを記念する事業として計画され、出品総数が15万件を超える大規模なもので、50万人近い入場者を集めて盛況のうちに閉会しました。そしてこれをきっかけに観光地としての高松という気運が高まり、商店街や鉄道の整備が進められ、積極的に名勝地のP R が行われるようにもなりました。
 しかし当時は、第一次大戦後の戦後恐慌、関東大震災、昭和2年の金融恐慌といった経済的・政治的な不安のさなかにあった時代で、高松も例外ではなく、博覧会の開催はその華々しさとは裏腹に暗い情勢の中でどうにか活路を開こうとする試みだったといえるでしょう。
 ポスターでは、那須与一や和服の女性といういわゆる伝統的なものと、洋風な博覧会の仮設の建物が描かれています。突飛な組み合わせにも見えますが、これらのモチーフや、洋画、日本画の混合した表現方法、文物を通した殖産興業(しょくさんこうぎょう)を担う博覧会という催し物そのものにも、明治以降の日本で西欧的な近代がどのように移植されてきたかという一側面が現れているのではないでしょうか。

 
 全国産業博覧会 ポスター

平成14年3月15日掲載


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