背景画像 高松城跡蘇鉄


 

 

 

     

高松歴史こぼれ話 第3頁


第21回から第30回まで

第21話

もうひとつの高松城

 高松町にある喜岡寺の境内周辺は,高松城のあった所である。といっても現在の高松城ではない。高松町の城は,室町時代から戦国時代にあった城で,喜岡城とも呼ばれた。
喜岡城跡の碑
喜岡城跡の碑
 建武3年(1336),後醍醐天皇に派遣された舟木頼重は,高松城にあって讃岐を治めていた。ところが,足利方の細川定禅じょうぜんの率いる軍に攻められ,頼重の父など多くの一族郎党が討死,城は落城した。これ以降讃岐は南北朝の動乱に巻き込まれていくのである。
 その後,天正13年(1585),讃岐は土佐の長宗我部元親の支配下にあった。高松城の城主は,頼重の子孫といわれる高松頼邑よりむらであった。応援の将・唐渡弾正だんじょうと片山志摩しまをはじめ200人の兵が守っていた。そこに押し寄せたのが,豊臣秀吉の命を受けた2万の大軍である。必死の抵抗をするものの衆寡敵せず。頼邑,弾正,志摩の三将をはじめ200人の兵は城を枕に討死を遂げた。2度目の落城である。
 以後,一揆などによる争いごとはあったものの,現在に至るまで讃岐では軍隊同士の衝突は起こっていない。

平成16年1月2日掲載


第22話

大池の有舌尖頭器

 木太町の大池(新池とも呼ばれる)の池底から,2点の石器が採集されている。
大池
大池
 有舌尖頭器ゆうぜつせんとうきと呼ばれるもので,丁寧なつくりの整った形をした石器である。槍先にでも使用されたのであろう。
 ところで,有舌尖頭器は旧石器時代から縄文時代に移り変わる頃(約13000年前後の頃)によく作られた特徴ある石器である。
 大池の底からそのような石器が発掘にもよらず採集されたという事実から,このあたりは現在の地表面と当時の地表面が,あまり違ってないということを物語っている。
 石器があまり埋まってなかったということであり,1万年以上の間,多くの土砂が堆積することが,無かったということを示しているのではないだろうか。
 2点の石器は,高松平野の地形変遷の手掛かりを与えてくれているのである。

平成16年1月16日掲載


第23話

お花畑と静観荘

 江戸時代の初期,花園町のあたりに「静観せいかん荘」と呼ばれる屋敷があった。
 生駒家12代目の殿様・生駒親孝ちかのり(1790〜1835)によって書かれた「讃羽綴遺録さんうてついろく」によれば,生駒騒動の前,二つの派閥に割れ不穏な動きをみせる生駒家家中を抑えるために,割って入った藤堂家の重臣・藤堂兵庫ひょうごが供応されたのが,生駒家の「お花畑の別荘」であったという。(「讃羽綴遺録」によれば木太村所在とあるが誤記か?)
 生駒家の後,領主となった松平家の初代・松平頼重(1622〜95)は,承応2年(1653),この別荘に老臣を招いて宴を催した。間もなく,頼重は別荘を廃するのであるが,その跡の一部を重臣・彦坂織部おりべ玄隆(?〜1656)に下げ渡した。このとき織部は「静観荘」の名を付けた。
 彦坂家は二代目の織部玄年(?〜1685)に頼重の養女・多阿姫(?〜1710/頼重の妹・万の子供)が嫁ぐなど,藩主の縁戚として重要視されるが,嗣子なく織部玄年が死去したため絶家となる。
 「静観荘」はその後も多阿姫が使用していたが,彼女は元禄5年(1692)に水戸に帰った。「静観荘」は翌々年の元禄7年に,ときの藩主・松平頼常(1652〜1704)に返却され,その後,畑になったという。

平成16年2月6日掲載


第24話

藤左衛門尉のこと

 讃岐あるいは高松の鎌倉時代の様子は,発掘調査の進展により徐々にではあるが判りはじめた。しかしながら文書等による記録が少ないため,不明な点が多いのも事実である。
 その少ない記録の中で,鎌倉幕府の事跡を記した史書・『吾妻鏡』には,寛元4年(1246)讃岐の御家人・藤左衛門尉という者が,海賊を捕まえて幕府にさしだしたとの記載がある。このことから当時の瀬戸内海は海賊たちが横行する,大変な地域であったことがわかる。
瀬戸内海
瀬戸内海
 ところで,この藤左衛門尉という人物は,江戸時代に編纂された『南海通記』などによれば,香西家の三代当主・資茂であるという。(異説もある。)
 香西氏は鬼無町佐料を本拠地に,活躍した豪族である。資茂のあと香西氏は徐々に海に進出し,瀬戸内海を舞台に活躍するようになったといわれている。特に,戦国時代初期には讃岐屈指の勢力として各地に侵出した。
 ところで「鬼無といえば桃太郎,桃太郎の物語の鬼は海賊,従って,資茂=桃太郎」という三段論法が成り立つと思うのだが・・・。成り立つわけが無いか。

平成16年2月20日掲載


第25話

寛永の三馬術・曲垣平九郎

 曲垣まがき平九郎という生駒高俊の家臣がいたらしい。世間一般には,講談師が張り扇で叩き出したヒーローとされている。すなわち実在の人物でないということである。
 ときは寛永11年(1634),江戸で最も展望のよいとされた愛宕神社の麓,通りかかったのは将軍徳川家光。ふと愛宕神社を見上げると梅が咲いている。家光は「あの梅を馬にて採ってまいれ」と言う。しかし,愛宕神社の参道は急階段として知られたところ。従う大名・旗本らは顔を見合わせ困った様子。というのは,歩いて上がるのも難儀な急坂で,馬ではとうてい無理と思われたからである。
 そのとき坂を上がったのが高松生駒家の家臣・曲垣平九郎である。馬を巧みに操り,階段を駆け上がると,梅を一枝おり襟首に挿す。そして同じように馬を巧みに操り降りてきた。
 梅の花を将軍・家光に差し出した平九郎,「日本一の馬術の名人」とのお褒めの言葉を賜った。こうして高松生駒家家臣,曲垣平九郎の名は鳴り響いたとか。
 御年配の方はご存知だと思うが,若い市民にも「寛永の三馬術」として賞賛された平九郎の物語を知っていただきたい。

平成16年3月5日掲載


第26話

英語のリーフレット

 歴史資料館に戦前のリーフレットが幾つか保存されている。そのなかに英語で書かれた玉藻ホテルのものがある。
 玉藻ホテルは,昭和13年(1938)に高松で最初に開館したホテルで,内町に所在した。3階建ての洋風建築で,周囲に従来からの旅館ばかりだったところに出現したのだから,きわめて珍しかったに違いない。
 昭和9年(1934)には,関係者・関係機関の努力の結果,瀬戸内海が国立公園に,屋島が史跡天然記念物にそれぞれ指定された。そのことからもわかるように,昭和初期の高松は,周囲をあげて観光客誘致に奔走した時代であった。
 先にあげた英語のリーフレットは,そのような時代背景のなか出現したのである。
 英文を書いたのは当時支配人であった平井健太氏(御子息・平井次郎氏談)であった。平井氏のように観光客誘致の対象を,国内に限らず世界に向けていた人物がいた事実を,雄弁に物語るリーフレットである。

平成16年4月2日掲載


第27話

高松の画壇

 南北に延びる商店街,丸亀町・南新町・田町は城下町・高松の背骨ともいえる。南部の南新町・田町は,寛永17年(1640)の絵図にはみられない。
 現在のところ南新町は宝永5年(1708),田町は宝暦2年(1752)に,その存在が確認できる。南に造られた新しい町・南新町,田の中に造られた町・田町と,地名からして新興の町である。
 18世紀の中頃,その両町に生を受けた絵師が3人いる。寛延元年(1748)生まれの亀井東渓(小倉姓を名乗る),宝暦5年生まれの黒田綾山,宝暦7年生まれの長町竹石の三人である。東渓と竹石は南新町,綾山は田町の出身である。
 最年長の東渓と最年少の竹石の年齢差は,わずかに9歳。綾山は対岸の備中に居を移し活躍するが,竹石と東渓は八代藩主・松平頼儀の庇護を受け讃岐を中心に活躍する。
 嘉永6年(1853)に発行された古今南画要覧には,最上段に竹石,下段上部右と左に東渓,綾山の名が大きく書かれている。いずれも,全国的に認められた絵師であった。
 彼等によって開かれた高松の画壇には,以後も多くの絵師・画家が輩出する。彼らの活躍は,高松の町人文化を花開かせたともいえよう。

平成16年5月21日掲載