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第21回から第30回まで
第21話
高松町にある喜岡寺の境内周辺は,高松城のあった所である。といっても現在の高松城ではない。高松町の城は,室町時代から戦国時代にあった城で,喜岡城とも呼ばれた。
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| 喜岡城跡の碑 |
平成16年1月2日掲載
第22話
木太町の大池(新池とも呼ばれる)の池底から,2点の石器が採集されている。
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| 大池 |
平成16年1月16日掲載
第23話
江戸時代の初期,花園町のあたりに「
生駒家12代目の殿様・生駒
生駒家の後,領主となった松平家の初代・松平頼重(1622〜95)は,承応2年(1653),この別荘に老臣を招いて宴を催した。間もなく,頼重は別荘を廃するのであるが,その跡の一部を重臣・彦坂
彦坂家は二代目の織部玄年(?〜1685)に頼重の養女・多阿姫(?〜1710/頼重の妹・万の子供)が嫁ぐなど,藩主の縁戚として重要視されるが,嗣子なく織部玄年が死去したため絶家となる。
「静観荘」はその後も多阿姫が使用していたが,彼女は元禄5年(1692)に水戸に帰った。「静観荘」は翌々年の元禄7年に,ときの藩主・松平頼常(1652〜1704)に返却され,その後,畑になったという。
平成16年2月6日掲載
第24話
讃岐あるいは高松の鎌倉時代の様子は,発掘調査の進展により徐々にではあるが判りはじめた。しかしながら文書等による記録が少ないため,不明な点が多いのも事実である。
その少ない記録の中で,鎌倉幕府の事跡を記した史書・『吾妻鏡』には,寛元4年(1246)讃岐の御家人・藤左衛門尉という者が,海賊を捕まえて幕府にさしだしたとの記載がある。このことから当時の瀬戸内海は海賊たちが横行する,大変な地域であったことがわかる。
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| 瀬戸内海 |
平成16年2月20日掲載
第25話
ときは寛永11年(1634),江戸で最も展望のよいとされた愛宕神社の麓,通りかかったのは将軍徳川家光。ふと愛宕神社を見上げると梅が咲いている。家光は「あの梅を馬にて採ってまいれ」と言う。しかし,愛宕神社の参道は急階段として知られたところ。従う大名・旗本らは顔を見合わせ困った様子。というのは,歩いて上がるのも難儀な急坂で,馬ではとうてい無理と思われたからである。
そのとき坂を上がったのが高松生駒家の家臣・曲垣平九郎である。馬を巧みに操り,階段を駆け上がると,梅を一枝おり襟首に挿す。そして同じように馬を巧みに操り降りてきた。
梅の花を将軍・家光に差し出した平九郎,「日本一の馬術の名人」とのお褒めの言葉を賜った。こうして高松生駒家家臣,曲垣平九郎の名は鳴り響いたとか。
御年配の方はご存知だと思うが,若い市民にも「寛永の三馬術」として賞賛された平九郎の物語を知っていただきたい。
平成16年3月5日掲載
第26話
歴史資料館に戦前のリーフレットが幾つか保存されている。そのなかに英語で書かれた玉藻ホテルのものがある。
玉藻ホテルは,昭和13年(1938)に高松で最初に開館したホテルで,内町に所在した。3階建ての洋風建築で,周囲に従来からの旅館ばかりだったところに出現したのだから,きわめて珍しかったに違いない。
昭和9年(1934)には,関係者・関係機関の努力の結果,瀬戸内海が国立公園に,屋島が史跡天然記念物にそれぞれ指定された。そのことからもわかるように,昭和初期の高松は,周囲をあげて観光客誘致に奔走した時代であった。
先にあげた英語のリーフレットは,そのような時代背景のなか出現したのである。
英文を書いたのは当時支配人であった平井健太氏(御子息・平井次郎氏談)であった。平井氏のように観光客誘致の対象を,国内に限らず世界に向けていた人物がいた事実を,雄弁に物語るリーフレットである。
平成16年4月2日掲載
第27話
南北に延びる商店街,丸亀町・南新町・田町は城下町・高松の背骨ともいえる。南部の南新町・田町は,寛永17年(1640)の絵図にはみられない。
現在のところ南新町は宝永5年(1708),田町は宝暦2年(1752)に,その存在が確認できる。南に造られた新しい町・南新町,田の中に造られた町・田町と,地名からして新興の町である。
18世紀の中頃,その両町に生を受けた絵師が3人いる。寛延元年(1748)生まれの亀井東渓(小倉姓を名乗る),宝暦5年生まれの黒田綾山,宝暦7年生まれの長町竹石の三人である。東渓と竹石は南新町,綾山は田町の出身である。
最年長の東渓と最年少の竹石の年齢差は,わずかに9歳。綾山は対岸の備中に居を移し活躍するが,竹石と東渓は八代藩主・松平頼儀の庇護を受け讃岐を中心に活躍する。
嘉永6年(1853)に発行された古今南画要覧には,最上段に竹石,下段上部右と左に東渓,綾山の名が大きく書かれている。いずれも,全国的に認められた絵師であった。
彼等によって開かれた高松の画壇には,以後も多くの絵師・画家が輩出する。彼らの活躍は,高松の町人文化を花開かせたともいえよう。
平成16年5月21日掲載