背景画像 栗林公園楓岸


 

 

 

     

高松歴史こぼれ話 第2頁


第11回から第20回まで

第11話

生駒正俊の娘の境遇

 この原稿をうちこんでいるのは,7月26日である。暦が違うので一概には言えないが,今を去る363年前の7月26日は高松にとって歴史的な日であった。
 特に,高松の殿様の家に生まれた一人の女性にとって,激動の日であったに違いない。
 その女性は生駒家3代の当主・正俊の娘で,兄に4代の当主・高俊がいる。彼女が嫁いだのが,今の兵庫県山崎に城を構える池田輝澄であった。
 ところが寛永17年(1640)7月26日,幕府の裁定により,兄の生駒藩,夫の山崎藩ともに御家騒動のため同じ日に取り潰された。
 ともに,1万石を与えられ家名存続は許されるが,1万石という大名の最低ラインへの転落である。
 嫁ぎ先と実家が同じ日に没落するという境遇に,彼女はどんな思いであったのだろうか。
 そして,高松は,その日を境に外様大名の城下町から,親藩松平氏の城下町へと歩み出すのである。

平成15年8月1日掲載


第12話

大力の僧・宥遍上人

弘憲寺
弘憲寺
 弘憲寺の宥遍ゆうへん上人は大力の僧として有名である。
 あるとき懇意の寺を訪ねると,大勢の人々が大きな手水鉢ちょうずばちを動かせず困っていた。
 そこで,自分がやってみようと,手水鉢に両手をかけ渾身の力をこめて動かすと,さしもの手水鉢もやすやすと動いたという。
 まわりの人々は,とても人間業でないとおおいに感じ入った。
 宥遍の大力を伝えるこの話には後段が付いている。
 その後,寺の住職は,「大力には恐れ入ったが,手水鉢を動かしたとき力のこもるにつれて,体や顔かたちが常とは異なり,いかにも物恐ろしき相であった。僧として似つかわしくなく,仏に仕える者には大力は必要ではないのでないか。」と諌めた。
 宥遍はもっとものことと思い,二度とその大力をあらわさなかったという。

平成15年8月15日掲載


第13話

戦国時代の香西氏

 戦国時代,高松の鬼無・香西・下笠居周辺を根拠に武威をふるった一族がいた。
 香西氏と呼ばれるその一族は,土佐の長宗我部元親の侵攻により滅んだため,不明な点も多い。
香西氏の城勝賀城跡
香西氏の城勝賀城跡
 しかし,全国各地にのこされた僅かな資料から,その活躍を垣間見ることができる。
 それによれば香西氏は戦国時代の初期・京都付近に進出し,戦いを繰り返した。
 なかでも,香西又六と呼ばれた人物は,主人の細川政元を暗殺し,政元の養子・澄之すみゆきを押したてて一時は京を掌握したほどである。
 又六の京都支配は長く続かなかったが,その後も香西氏を名乗る者たちが,讃岐はもちろん近畿地方などで断続的に活動している。
 その者たちの子孫であろうか,江戸時代になって,岡山の池田家や松江の松平家に仕えた香西氏がいる。

平成15年9月5日掲載


第14話

三層三階の櫓が建ち並んだ高松城

三層三階の艮櫓
三層三階の艮櫓
 高松城は生駒親正によって築城された。
 その後藩主は,徳川一族の松平氏に変わり,その居城として大改造が加えられた。
 その結果,最上層部が張り出した南蛮造りといわれる天守閣や,披雲閣が三ノ丸に建てられるなど様相を一新したといわれる。
 なかでも月見櫓のように,三層三階の櫓が五棟も建てられていた。
 三層三階の櫓といえば,丸亀城の天守閣にも匹敵する規模である。
 四国屈指の規模を誇る天守閣のまわりに多くの三層三階の櫓が配された高松城は,西国大名の監察を言い渡されたと伝えられる松平家の居城として,さらに,四国の要衝,高松を守るにふさわしい城となったのである。

平成15年9月19日掲載


第15話

特別名勝・栗林公園のいろいろ

栗林公園
栗林公園南湖
 天下の三名園を凌ぐとされる栗林公園。
 回遊式の大名庭園として国の特別名勝の指定を受けている。指定面積は751,317uで,指定を受けた庭園のなかでは,全国一大きい。
 もちろん紫雲山を含んでいるためであるが,山の部分を除いても,面積は三名園を凌いでいるのである。
 また,小普陀しょうふだの石組みは室町時代にまでさかのぼるといわれ,発祥の古さは,これまた大名庭園のなかでは特筆すべきことなのである。
 ところで,我々は栗林公園と疑いなく呼んでいるが,その呼び名は明治時代以降のことである。
 公園が現在の姿になった江戸時代には,御林もしくは栗林園が正しい呼び方であった。

平成15年10月3日掲載


第16話

義民・小村田之助の父の行方

 インターネットから探し出した話を一つあげてみたい。義民・小村おもれ田之助の話はよく知られているが,寛永21年(1644)その田之助が高松松平藩に処刑された後の話である。
 「父は追放され,播磨国山崎城主・松平周防守康映に仕えて士籍に列せられ,小村平之丞と名乗ったという。その後,慶安2年(1649)松平氏が石見国浜田(現在の島根県浜田市)に移されたとき,それに従い浜田に移った。」これが,田之助の父に関するいい伝えである。
 そこで,「小村平之丞」をキーワードにしてインターネット上で検索すると,「名城大学法学部法制史研究会/天保7年(1836)陸奥国棚倉城請取一件(※)」のなかに,小村平之丞の名前を見つけることができた。
 それによると彼は,藩公に従い浜田から奥州棚倉(福島県棚倉町)に移っている。役は物頭とあるから,中堅クラスといえるであろう。もちろん,田之助の父・平之丞ではないであろうが,その子孫と考えてよいであろう。
 詳しいことが知られていない田之助の事件の裏の一端を見るようでもある。
 (※ http://wwwhou1.meijo-u.ac.jp/housei/tenpo/t_matsui/matsui001.htm)

平成15年10月17日掲載


第17話

横穴式石室から出土の中世土器

神高池内の壊れた古墳
神高池内の壊れた古墳
 横穴式石室という石の部屋を持った古墳は,6世紀から7世紀のはじめにかけて多く造られた。高松市では新田町の久本古墳が代表格であるが,平野部は除いて市域のほぼ全体に分布している。
 ところで,横穴式石室を発掘調査すると,古墳時代より新しい遺物が出土することが多々ある。
 久本古墳もそうで,鎌倉時代から室町時代・いわゆる中世といわれる時代のお椀などが発掘されている。鬼無町の神高池古墳や西春日町の南山浦11号墳などでは,極めて多くの中世に使われた土器が出土した。
 このことは,横穴式石室が中世に再利用されたことを示している。古墳時代と同じく墓として利用されたのか,それとも住居として利用されたのか。現段階では利用目的は不明である。

平成15年11月7日掲載


第18話

日本山岳会初代会長は高松生まれ

 社団法人日本山岳会という組織がある。そのホームページ(※)によれば,「1905年(明治38)に創立された我が国で最も歴史のある山岳会として日本の登山界を常にリードしてまいりました。」とある。
 日本山岳会では,昭和6年に会長を置いたが,その初代会長こそ「小島久太」である。
 本名の「久太」で呼ぶより「小島烏水うすい」といったほうが有名であろう。彼は,日本登山界の黎明の頃,日本アルプスなどで多くの登山を行っている。
 ところで,この「小島烏水」が,高松市の七番丁(現在の番町)に高松藩士の子として生まれたことは,現在の高松市民がどれほど知っているだろうか。
 家の都合で,幼い頃高松から横浜に移ったため,烏水の名は市民の間には忘れ去られた存在となっている。残念なことである。
 烏水については,回を改めてもう少し詳しく記載してみたい。
 (※ http://www.jac.or.jp/)

平成15年11月21日掲載


第19話

生駒高俊の長子のこと

 『徳川実紀』という書物がある。徳川幕府の治績を,年をおって記載したものである。
 その,寛永17年(1640)7月26日の項に「讃岐国高松城主生駒壱岐守高俊封地十七万千八百余石を収公され,長子右衛門高法と共に,出羽の国由利矢島・・・」とある。
高俊の墓(矢島町)
高俊の墓(矢島町)
 ここで注目したいのは,右衛門高法という人物である。
 高俊はこのとき三十歳。ある程度の年齢の子供がいて不思議ではない。
 高法は高俊の長子とされ,父の高俊とともに処罰の対象となっているので,生駒家にとっても重要な人物だったと考えられるし,実在した人物に違いない。
 ところが,生駒家の系図によれば高俊の長子は,生駒家を継いだ高清となっている。
 高清は寛永20年の生まれで生駒騒動の後,高俊が矢島に移った後の生まれである。
 明らかに高法とは同一人物ではない。また,高法の記載はないのである。
 高俊の長子・右衛門高法は,寛永17年7月26日の徳川実記の記載に突然あらわれ,そして跡形も無く消え去るのである。

平成15年12月5日掲載


第20話

難読地名・亀水の由来について

 高松市の町名のなかで小村町,中間町,亀水町は,難読地名と言ってもいいのではないだろうか。それぞれ「おもれ,なかつま,たるみ」と読む。
亀水の谷
亀水の谷
 今回はこのうち,亀水町の由来を調べてみた。『香西記』という書物によれば,“亀が淵”と呼ばれる大変深い淵があって,そこから流れ出る水はあたりの水田や民家で利用され,人々は水に困ることがなかった。
 そこで,亀水という二文字をもって,たるみと呼んだという話が載せられている。
 また,高松地名史話には,タルミが古い言葉で滝のことであるとして,次の話を掲載している。
 むかし孝徳天皇の時代,日照りで困ったときのこと,阿利真ありまという人が樋を使って,滝の水を御殿に引き飲料水をためたという。
 天皇はその功をたたえ,彼に「垂水公」の姓を授けた。その子孫が移り住んで,タルミという地名となったのではないかと推定している。
 ところで,丸亀市にも垂水と書いてタルミと読む町名がある。高松市の亀水町と関係はあるのだろうか。

平成15年12月19日掲載

平成16年2月6日新規