背景画像 生駒親正石像


 

 

 

     

高松歴史こぼれ話 第1頁


第1回から第10回まで(番外も含む)

番 外

生駒小法師のこと

 読売新聞の4コママンガの主人公は“コボちゃん”である。
 ところで,この“コボ”ちゃんという名前は,高松の殿様の略称であることはご存知であろうか?
 生駒家四代の高俊の幼名は,小法師といって,その父・正俊は書状のなかで,「こぼ」とか「おこぼ」と呼んでいるのである。

平成15年2月7日掲載


第1話

初代の高松駅は資料館の前

 高松市歴史資料館のあるサンクリスタル高松は,明治時代の駅前であった。
 というのは,高松に最初に鉄道がついたのは,明治30年(1897)のことで, その時の駅は,西浜ステーションといって,当時の宮脇村に造られ,その場所が現在の香川県立盲学校である。
 従って盲学校と道を隔てた反対側のサンクリスタル高松が建っている場所は,明治時代には駅前の土地であったことになる。
 現在の付近へ高松駅が移るのは明治43年(1910)のことである。

平成15年3月7日掲載


第2話

讃岐で一番大きな池は小田池?

小田池
小田池の堤
 「讃岐で一番大きな池は満濃池である。」は正しいが,ちょっと,待ってください。実は,「川部町と香川郡香南町の境界の池,小田池が一番大きな池である。」も正しい。本当・・・?
 人柱伝説で知られる小田池は,讃岐で一番長い堤を持つ池なのである。(大きいというよりも長いといった方がいいかもわからないが)
 堤の総延長は,1.7キロ以上に及ぶ。高い所で,10メートル余の高さを持つ堤を2キロ近く築くのは莫大な工事量である。
 高松市の境界に位置する小田池は,満濃池とは違った意味で大きな池であるといえる。

平成15年3月21日掲載


第3話

野原濱村 无量壽院と書かれた瓦片

文字が書かれた瓦
野原濱村の文字
 野原濱村のはらはまむら,五百年近くの時を経てよみがえった地名である。
 市教育委員会が実施した発掘調査により出土した瓦片の一つに,「野原濱村无量壽院むりょうじゅいん天文九月」と書かれていた。このことから,高松城築城以前の姿が浮かびあがってくる。
 高松城が築かれる前,一帯は寺のあるそれなりの繁華な場所であったことになる。
 何もない原野に高松城が造られたというイメージは,誤りであったことが分かりだした。

平成15年4月4日掲載


第4話

女木島男木島の領主・高原氏

女木島・男木島・直島
女木島・男木島・直島
 高松にかかわる「御家騒動」といえば,生駒家のことが思い浮かぶが,高松城主が生駒高俊から松平ョ重に代わり,少ししてもう一つの「御家騒動」が起きる。
 その家は,女木島,男木島の領主で,直島に本拠をおいた旗本の高原氏。寛文11年(1671)5月に前当主・高原仲昌が,当主で養子の仲衡を養父母に不孝であると幕府に訴え出た。
 幕府は,訴えが不届きであるとして,寛文11年12月に領地召し上げ,高原家断絶の措置をとった。生駒家が讃岐を去った31年後のことである。


平成15年4月18日掲載


第5話

大隈重信と桃太郎伝説

 大隈重信(1838〜1922)といえば,政治家として,また早稲田大学の創立者として有名である。
桃太郎伝説の舞台女木島
桃太郎伝説の舞台女木島
 この大隈重信が大正3年(1914)秋,鬼無駅で演説を行った。「この駅はオニナシかと思えば,キナシと読むそうだ。なかなか面白い地名だと思う。とにかく,村人諸氏は地名のそれのように何とぞ心の中に鬼が無いように,個人も団体も皆ますます向上発展に努力されたい・・・」と,その年の4月,上笠居小学校(現在の鬼無小学校)の訓導(現在の小学校教諭)として赴任していた橋本仙太郎(1890〜1940)は書きとめている。
 演説に感銘を受けた20代の青年・橋本仙太郎は,それを機に郷土研究の道を歩み出すこととなる。着実に精力的に研究を進めた彼が得た成果が,昭和5年(1930)に発表された。それが「高松の桃太郎伝説」である。
 このことからわかるように,大隈重信の演説が,現在の「高松の桃太郎伝説」が語られるきっかけとなったといえるのである。

平成15年5月2日掲載


第6話

高松藩の出世頭・後藤主膳

 江戸時代,武士の子は武士,町人の子は町人というように,生まれでその将来はほぼ決まっていた。武士も多くの層に分かれていて,普通,下級武士の家に生まれた者は,上級武士になることができない。が,なかには異例の出世を遂げる人がいた。柳沢吉保(1658〜1714)や,田沼意次(1719〜88)がその代表であろう。
松平ョ豊墓所
松平ョ豊墓所
 高松松平藩でもこのような事例がある。三代藩主・ョ豊(1680〜1735)の時代に,家臣の最高位・大老にまでのぼりつめた後藤主膳しゅぜんである。主膳はョ豊が二代藩主・ョ常(1652〜1704)の世子となる以前,7歳でョ豊の御側に召し出された。親の伝長(伝七)は三人扶持十五俵の武士で,決して高くない身分であった。
 その伝七の次男・主膳の出世物語は,宝永元年(1704)ョ豊が藩主となってから始まり,最終的には藩のナンバー2の大老に駆け登ったのである。
 ただし,評判はさほどよくない。飢饉により困窮した多くの農民が城下に集まっているのを見たョ豊は,何故かと尋ねたところ,主膳は, 豊年につき御礼に来ていると答え,藩主の機嫌を取り持ち,結果として民の恨みをかったと小神野夜話おがのやわという書物は伝えている。

平成15年5月16日掲載


第7話

前田東・中村遺跡の縄文土器

 讃岐では,縄文土器の出土は珍しい。しかも完全に近い形となると稀である。
 その理由は,縄文時代の遺跡が少ないからなのだが,その少ない理由はわかっていない。
 近年道路建設に伴う発掘調査が多くなり,あわせて縄文時代の遺跡が発見されることも多くなったが,少ない傾向は変わらないようである。
 そのような中で,前田東・中村遺跡の注口土器は貴重な例である。土瓶のような形の土器で,今から約3,500年前・縄文時代後期のもので,現在の高松東インターチェンジの敷地から発掘された。現在,車が頻繁に行き交う所は,数千年前から人々の生活の舞台であったことがわかる。

平成15年6月6日掲載


第8話

観賢僧正と弘法大師

 延喜21年(921)10月27日,空海に弘法大師の号が朝廷から下賜される。
観賢ゆかりの剃刀塚
観賢ゆかりの剃刀塚
 空海の没後86年,空海終生のライバルとされる最澄におくれること55年のことである。
 ここに空海が「お大師さん」として庶民に慕われる弘法大師信仰の原点があると言えるのではないだろうか。
 この大師号の下賜について大きな力となったのは,現在の高松市鶴尾地区出身の高僧・観賢(853〜925)である。彼は当時分裂をしていた真言宗の各寺をまとめ,朝廷に空海に大師号を賜るよう運動を行い,ついに実現したのである。歴史に「・・・たら」はないが,観賢の努力がなければ,空海に対する善男善女の信仰が今の形でなかったかもしれない。

平成15年6月20日掲載


第9話

菊池寛の一族・菊池五山のこと

 狂歌の創始者・太田南畝(1749〜1823)の句に,「詩は五山,画は文晁に,書は三亥,芸者お勝に,料理八百善」とある。この五山とは,高松出身の菊池五山(1769〜1853)のことである。
 その五山が知られるようになったのは,五山堂詩話を刊行したことに始まる。五山堂詩話は15巻を数え,著名な詩人から,全く無名な詩人のものまで2千首以上の漢詩を紹介・批評した。また,自らも多くの詩を作っている。
 批評家として,また編集者として,そして作者として活躍する姿は,一族の後裔(義兄の子孫)・菊池寛(1888〜1948)の事蹟と,重なるものがあるようにも思える。

平成15年7月4日掲載


第10話

サヌカイト等々・讃岐国は石の国

 讃岐は石の国である。まず,旧石器時代から弥生時代にかけて,石器の材料としてサヌカイトが利用された。
 古墳時代になると石清尾山周辺では,安山岩の人頭大の石を積み上げて古墳を造った。有名な積石塚古墳である。また,国分寺町と坂出市の境にある鷲の山から切り出した石で石棺を造った。石清尾山の石船塚古墳や,三谷町の石船古墳に見られる。
 時代が下がると,豊島石に代表される柔らかい凝灰岩系の石が利用される。屋島の洞窟等はこの石を切り出した跡といわれる。
 さらには花崗岩が,讃岐の島々から大坂城の築城用石材として大量に運ばれた。花崗岩は,現在に至るまで,様々な石造物に利用されている。
 また,高松では由良石の存在も忘れてはならない。
 このように讃岐では古来より様々な形で,石が利用されてきた。

平成15年7月18日掲載

平成16年2月6日新規