高松市の先賢

第48回特別展示「近代香川の人物譜・菊池寛と同じ時代を生きた人々」から

歴史資料館では,平成20年6月14日から7月27日まで,第48回特別展示「近代香川の人物譜・菊池寛と同じ時代を生きた人々」を行いました。
展示のテーマは明治時代という激動の時代を駆け抜けた讃岐の多くの先人達です。
先人の業績を忘れることなく,今後に継承していくことは大切なことなので,彼らをもう一度ホームページの中で紹介することにいたしました。
是非,ご観覧ください。

【鎌倉芳太郎】

琉球芸術研究から人間国宝へ
渡り鳥を見てもこれを姉妹の精霊と信じ祈る心象,それが沖縄の心として,紅型図案に表されている。故に紅型を継承するのは沖縄の人であり,それ以外の誰でもない。結局,私としては『万葉』時代からの本土の心を歌うべきであり,そこに今日の日本人としての新しい心象の世界を表現しなければならぬと思う。それが私の型絵染の立場である。
昭和51年:「型絵染に関する芸術論考」より
鎌倉芳太郎は,明治31年(1898)木田郡氷上村(現三木町氷上)に生まれた。香川県師範学校を経て東京美術学校図画師範科に入学,卒業後教師として自ら希望して赴任した沖縄で,琉球芸術研究の一歩を踏み出す。
帰京後も東京帝国大学教授伊東忠太の指導のもと研究を続け,調査事業を立ち上げて琉球芸術の総合的な学術研究を行い,学界に紹介した。研究者として収集した資料や写真は後に太平洋戦争で痛手を受けた沖縄の伝統文化を知る貴重な資料となっている。さらにこの調査事業の中で琉球染色の技法を会得する。
昭和19年(1944),東洋美術史研究者として教鞭をとっていた東京美術学校を退き,さらに東京大空襲で琉球芸術に関する資料を残して全ての研究資料を失った鎌倉は,琉球染色の研究に専念,やがて染色家へと転身をはかる。まず手がけたのが,肉筆模写による紅型の再現で,『琉球紅型』として発表している。作家としての作品も紅型研究の実践的意図が色濃いものから,伝統の琉球紅型に「万葉の心」を表現した独自の型絵染の世界を生み出すに至る。
昭和33年(1958),還暦を迎える頃に初めて日本伝統工芸展に出品。その年後の昭和48年(1973),型絵染の重要無形文化財保持者,いわゆる「人間国宝」に認定される。
昭和32年(1957)には,収集した型紙点を沖縄に返還,鎌倉の長年の研究がそ琉球紅型技法の保存と,伝統工芸産業の育成に資するところは計り知れない。

【菊池寛】

われ事において後悔せず
私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で,考えていることを,読者や編集者に気兼なしに,自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだろう。又,私が知っている若い人達には,物が云いたくて,ウズゝしている人が多い。一には,自分のため,一には他のため,この小雑誌を出すことにした。
大正12年:『文藝春秋』創刊の辞
菊池寛は明治21年(1888),高松七番丁(現高松市天神前)に生まれた。高松中学校(:現県立高松高校)を卒業後,


菊池寛
東京高等師範学校・第一高等学校を経て京都帝国大学に入学。卒業後は時事新報社の記者となる。記者時代に『新潮』の同人となり,「父帰る」「恩讐の彼方に」などを発表,大阪毎日新聞社に入社後は「藤十郎の恋」などを同紙に連載,作品は次々と上演され,時の人気作家となった。また「真珠夫人」や「第二の接吻」など,通俗小説家としても新境地を開いた。
執筆活動と平行して『文藝春秋』を創刊し,文藝春秋社を設立。自身のみならず,若い作家に発表の場を作った。昭和10年(1935)には芥川賞・直木賞を創設。一方大正6年(1926)には文芸家協会を設立し,職業としての作家の地位の向上と権利の保護にもつとめた。
作家・実業家として成功をおさめた菊池はまた趣味の人でもあった。学生時代にはじめた将棋もかなりの腕前,競馬についての評論も多く発表し,馬主にもなっている。その他麻雀・釣り・卓球など,面白そうなものは何でもやってみる菊池は,趣味の世界でもその天分をいかんなく発揮している。
さらに昭和12年(1937)には東京市会議員に当選,政治の世界にも足を踏み入れる。戦時中は「国家から頼まれたことは何でもやる」と公言,文芸銃後運動を唱えて各地で講演活動に奔走したが,戦後公職追放となり,新しい時代に足跡を残す間もなく,昭和23年(1948)急逝した。
宮本武蔵の「われ事において後悔せず」が座右の銘であった菊池の,今年が生誕120年,没後60年の節目となる。

【小島烏水】

日本近代登山の扉をひらく
空間を以て言へば,天地を接するものは,山なり,時間を以て言へば,四季の循環を1日に経験し得るものは山なり,処間を以て言へば,数百千里に亘れる水平線上の物を,直立体に分布して,両三日に究め得らるゝものは又山なり,自然が刷ける色彩,自然が


浮世絵と風景画
放てる光沢の,純粋なるものは,最も山に饒多にして,自然が意匠し,彫刻せる型体刻線,又山を以て最も変化万千となす,故に山角に立つは,絶対の一端に佇みて,絶対の秘奥を覗ふが如し,人生何物の高快か之に如かんや,惟みるに,山は実に不朽の寿を有する理想的巨人なり,天火を以て鋳られたる儀表的銅像なり,全国民の重鎮として立てられたる天然的柱石なり。
明治38年:「山岳会設立の主旨書」より
小島烏水は明治6年(1873),旧高松藩士の家に生まれたが,幼くして一家で横浜に移り住み,商業学校卒業後は銀行員として生涯を過ごした。烏水の登山家・紀行文作家・浮世絵研究家・版画収集家としての活動はすべて会社勤めと平行している。
純粋に「山に登ること」を目的とする近代登山が日本に定着する以前の明治35(1902),槍ヶ岳登山の大探検を達成した烏水は「槍ヶ岳探険記」を雑誌『文庫』に連載,山岳紀行文作家として世に認められることとなる。この槍ヶ岳登山が日本アルプス探検の先駆者であるイギリス人ウェストンとの出会いにつながり,さらに明治39年(1906),日本初の山岳会(後に日本山岳会):の設立につながっていく。
当時の山岳会には登山家だけでなく,博物学者や地理学者・風景画家なども加わり,それぞれの山に対する関心や愛着を共有し,おのおのの方法で山岳の魅力を発信していた。その中で烏水は紀行文だけでなく,山岳美を芸術論としてとらえる独自の風景論も発表,山岳を体験的・学術的にとらえようとする烏水の姿勢は,その文章を通じて人々に山への憧れを抱かせ,日本近代登山の先導者というべき存在となった。『日本アルプス』全4巻と『氷河と万年雪の山』は,生涯を代表する著作である。
烏水はまた,浮世絵の収集家・研究家としても知られ,『浮世絵と風景画』などの著作のほか,研究雑誌の創刊にも加わっている。滞米中にはさらに西洋版画のコレクションも加わり,浮世絵ともにコレクション展を開催している。浮世絵は帰国後売立ることになるが,その際に編纂された『小島烏水翁蒐集浮世絵目録』により,その内容を知ることができる。

【小西 和】

瀬戸内海を国立公園に


小西和一行書
日本の誇りとして,世界に自負し得るものは,瀬戸内海と富士山である。(中略)従って内海の方面に居住する人々は,特に幸福な訳であるが,併し他方から見れば,責務も亦それだけ大ならざるを得ない道理。その責務を全ふするの途は,詰り内海の発展を策し,国家の富強に資することなので,之には勿論,種々の方法があるとして,若しも地方に局脊すれば,気宇の狭,眼光の小に陥り,自己の長短を利別し得ぬ結果,進歩や発達を期することが出来がたいであらう。(中略)故に内海方面の人々は,十分,外客の招致に努め,且日本の人々の遊覧をも欲望すると共に,時折,自己の郷里を去って,海の内外を問はず,他の方面を観察すべきである。自己の精華を保存し,益々之を発揮しつゝ,他の長所を探るに努むるのは,大に利益あることで,これが又,内海の発展の根本となる次第である。
明治44年『瀬戸内海論』より
小西和は明治6年(1873),寒川郡長尾名村(現さぬき市長尾名)の地主の家に生まれた。歳で札幌農学校に進学,在学中に札幌郊外に小西農場を設立し,実家の小作人や,香川県からの移住者を受け入れた。青春を捧げて築いた小西農場はひとつの町を形成するほどの規模にまで拡大していった。
その後,農場を人に譲り上京し,明治36年(1903),東京朝日新聞社に入社。翌年には日露戦争の従軍記者として満州・樺太・シベリアに派遣される。
若くして新天地北海道に渡り,さらに戦地大陸の風景を目の当たりにした小西は,当たり前に眺めていた瀬戸内海の景観の比類なき素晴らしさを人一倍感じるようになる。『瀬戸内海論』の緒言で小西は,北海道に渡る船上で初めて外洋の内洋の異なる姿を知り,また大陸の無味乾燥した風景に飽き飽きとしたと語っている。
大陸派遣で得た休暇と賞与を利用して,帰国後瀬戸内海研究に没頭,その成果をまとめて明治44年(1911)に発表したのが『瀬戸内海論』である。「海主陸従」の景観保護と自然と人工の調和による観光誘致を説いたその視点は,今日の瀬戸内海をめぐる景観と観光のあり方を鑑みても,先見の明であったといってよいであろう。
翌年,総選挙に出馬し当選,以後の政治家人生の中で小西が成し遂げた最大の功績が国立公園法の制定であった。『瀬戸内海論』発表から24年後の昭和9年(1935),第1号の国立公園として瀬戸内海国立公園が誕生した。

【長尾雨山】

中国文芸界に足跡を残す
支那では学問を主として,その人格を陶冶しておるところのものが,これを芸術の上に現したものでなければ尊ばぬのである。(中略)これは大いに道理のあることで,芸術は芸術,学問は学問と分離してしまうことはできない。学問と芸術は大切な関係にあることをわれわれは知らなければならぬと思います。
昭和7年京都帝室博物館夏期講演会「支那南画について」


長尾雨山書(部分)
長尾雨山は,元治元年(1864)高松藩士の家に生まれた。父勝貞竹嬾は詩書に巧みで,勤王の志士と交わった松平頼該(左近)に仕えていたという。明治維新後は古高松村(現高松市高松町)に移り私塾を開いたというから,雨山も当地で父に漢学の教育を受けながら幼少時代を過ごしたものと推測される。
東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業後は文部省専門学務局に勤務,岡倉天心らとともに東京美術学校の設立に携わり,明治22年(1889) の開学時には漢文教員を兼務,同校での漢文の講義が明治27年に廃止されるまで,教鞭をとった。その間,天心を中心に創刊された日本初の美術学術雑誌『国華』に論説を発表するなど,近代日本美術の黎明期を最前線で支えた様子がうかがえる。東京美術学校開学時,天心26 歳,雨山25歳の若さであった。天心との親交はその後も続いていたようで,上海滞在時には,天心の依頼でアメリカ・ボストン美術館の美術品の選別にあたっている。また東京美術学校を退いた後赴任した第五高等学校(後の熊本大学)では夏目漱石と同僚となり,親交を深めたとされる。
その後東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科大学講師となった雨山であったが,明治35年(1902)に発覚した教科書疑獄事件に巻き込まれ,大学を辞職,上海へ渡った。上海で出版業を手がける商務印書館に迎えられた雨山は,中国人向けの教科書編纂に携わった。滞在12年の間,清代最後の文人と評される呉昌碩をはじめ多くの中国文人と交流を深め,大正2年(1913)には篆刻専門の学術団体西印社の設立に加わるなど,中国文芸界に足跡を残した。この間に身につけた文人としての教養と哲学,および人脈を基盤として帰国後は在野の研究者として,詩書画に親しむ生活を送った。社会制度や美術の西洋化の中で,東洋的な教養をその芸術哲学として守り続けた生涯であった。

【南原 繁】

真理は最後の勝利者である
個性なき国民は,個性なき人間というと同じく,世界の間に存立の意義と価値とを有するものではない。かような個性は学問・芸術・政治・憲法・社会制度の隅々にまで往き渡らせ,そこに真に善き日本的なものが産み出されなければならない。これをよく成就し,以って世界人類に貢献し得るにおいては,現在われわれが受けつつある悲惨も,そのために払う犠牲としてあえて高価に過ぎはしないであろう。けだし,それは国民が世界と自らとに犯した過誤に対する賠償―より適切には贖罪である。故にそれは国民の痛苦なくして行われるものではない。だが,それは同時にわれわれの救済であり,向上であり,民族の復活と新生である。
(昭和21年;紀元節にあったての東京帝国大学での演述「新日本文化の創造」)
南原繁は明治22年(1889),大川郡相生村(現東かがわ市相生)に生まれた。東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後,内務省勤務を経て,大正10年(1921)同大学助教授に就任し政治学者の道を歩みだしている。戦争が激化し,研究者への思想弾圧と干渉が強まる中,大学の自由と自治を守って研究を続け,終戦直後東京帝国大学総長に就任,数々の演述を通じて日本の復興を担う若い学徒の思想的支柱となった。占領下にあって国民の精神的革命と自律による国家の再生を理想とし,日本の最高学府の長として,教育基本法・学校教育法の制定,義務教育の実施,教育委員会制度の新設など,教育国家の実現を主導し,また全面講和による日本の平和国家としての中立を訴えた。
それに反して,世界は米ソ冷戦の時代を迎え,昭和26年(1951)中国・ソ連を除く連合国との講和条約を締結した年に,任期満了により東京大学総長を辞任。総長としての最後の演述に集まった人々に贈った「真理は最後の勝利者である」の言葉は,祖国を愛し,その平和を願う南原を生涯つき動かしていた信念そのものであった。
総長を辞した後も,冷戦下の憲法・政治・教育についての言論活動を続ける一方,自身の研究を『フィヒテの政治哲学』『政治理論史』『政治哲学史序説』として集大成し,日本学士院院長としてその充実にも尽力した。
敗戦から占領,冷戦の時代に,強い意志をもって理想を掲げ続けた南原はまた,歌人としても知られ,昭和23年(1948)には『歌集形相』を発表,戦時中の心情や,家族・友人・ふるさとへと向けられた深い慈愛の心を歌を通じて知ることかできる。

【野生司香雪】

仏教の聖地に壁画を描く
美を友として世を送った人のみ麗しい生活ができる
岡倉天心の言葉:香雪自筆の箱書より
野生司香雪は,明治18年(1885),香川郡檀紙村(現高松市檀紙町)で浄土真宗僧侶の家に生まれた。香川県工芸学校(現県立高松工芸高校)を卒業後,東京美術学校に入学,日本画家下村観山に師事した。この頃すでに創立者の岡倉天心は同校を辞職して日本美術院を設立,天心と行動を共にしていた観山は香雪卒業直後に再び辞職している。


野生司香雪画
日本画をめぐる体制的な変動期にあって,香雪の画壇における位置や活動は明らかではないが,大正6年(1917),仏教美術研究のためにインドに渡り,帰国後再興第7回院展に「窟院の朝」を出品し初入選,仏画家としての方向性を揺るぎないものとする。さらにインド・初転法輪寺に釈迦の一代記を描く任を得た香雪は昭和6年(1931)再びインドへと旅立った。
初転法輪寺は,悟りを開いた釈迦が最初に説法を行った鹿野苑の聖地に,インド仏教の復興を目指して建立された大寺院で,インドに限らずあらゆる民族の仏教徒が巡礼に訪れ,そこに描かれる釈迦の一代記は,崇拝の対象となるものでもある。「窟院の朝」以降,仏教の教義や図像学,梵語研究に没頭していた香雪は,仏伝の解釈や構図だけでなく,人物の姿態や服飾,建物や動植物の描写まで,綿密な研究に基づいて描いている。3年の月日を要して完成した壁画は,仏教の教義と芸術性が見事に調和した,香雪が仏画家としての持てる力を惜しみなく注いだ大作である。
帰国後は,長野善光寺雲上殿などの壁画を手がけ,高松の法恩寺や,父が役僧をつとめた檀紙村の金乗寺にも襖絵が残されているが,日本画壇の表舞台には出ず,長野で文化人や高僧と交わり,作画を楽しむ文人的生活を送った。一方インドから聖牛の白牛を招いたり,インド・スリランカ・ビルマなどの仏教国からの要人を自身の山荘に迎えるなど生涯インドと日本の交流の架け橋の役を担った。

【三土忠造】

教育者から政治家へ
帝国憲法は歴史を経とし,理想を緯とし,雄渾にして宏大,これを何れの国の憲法と比較しましても遜色ありませぬ。運用


三土忠造書
宜しきを得れば,これに依て民主主義も育成せられ,完成せられ,国利民福を増補し,世界の平和に貢献する上に於きまして,何ら不備なることはないと信じて来たのであります。(中略)しかし今日となりましては,如何に憧れても,如何に惜んでも,死児の齢を数ふるに過ぎませぬ。我々は寧ろこの際大悟し,過去は過去として,新たに生れて来る憲法を育成し,この憲法を規範として,国家国民の安寧幸福に邁進するの外ないと思ふのであります。
昭和21年:貴族院本会議での演説)
三土忠造は,明治4年(1871)大内郡水主村(現東かがわ市水主)に生まれた。東京高等師範学校(後の東京教育大学)を主席で卒業後,同校附属中学の教諭となった三土は,新しい教育論を打ち出して実践,また国文典教科書を出版するなど,教育者としても頭角を現していった。
明治39年(1906)高等師範学校教授の任を辞して,韓国政府学部参与官に就任,政治に近い立場から教育に携わり,その任務が完了した明治 41年(1908)帰国して総選挙に出馬し初当選を果たす。さらに政界入りして19年目の昭和2年(1927),田中義一内閣の文部大臣に就任。日本が議院内閣制をしいてから40年余り,香川県から初めて出した大臣であった。高橋是清の辞任により,わずか2ヶ月で文部大臣を辞して大蔵大臣に就任,昭和恐慌の混乱の中,休業銀行の整理再建や国家予算の編成に取り組んだ。約2年にわたる在任期間は政治家として最も本領を発揮した時期でもあった。
以後も大臣を歴任するが,昭和15年(1940),第2次近衛内閣が成立,既存政党が解体し,大政翼賛会へ合流する中,天皇の最高諮問機関である枢密院の顧問官に親任され,終戦まで国家の歴史的案件についての諮問にあたった。
終戦後,新憲法制定の審議が続く中行った演説は戦後日本の目指す方向を示す名演説として知られる。教育者として若い魂を教え導き,政治家となってからは国を育てることに生涯をかけた三土にとって,憲法とは国家の魂であり,それを育成し,健全に運用することが,政治家としての使命であった。

【宮内フサ】

「ほうこうさん」とともに一世紀
「わたしゃ,デコさん作っとる時が,イッチエ,楽しい」
昭和57年;『ふりつち』第67号の記事より
高松張子といえば,「ほうこうさん」の朗らかな笑顔を思い出す人は多い。今日ほうこうさんが香川を代表する民芸品とし


宮内フサ作 ほうこうさん
て親しまれるに至るには,明治から大正・昭和の100年近くにわたってほうこうさんを作り続けた宮内フサの存在が大きい。
宮内フサは明治16年(1883),高松鍛冶屋町の梶川人形店に生まれた。人形師であった父の傍で人形作りを覚え,本人の回想によれば,10歳の頃からほうこうさん作りをしていたという。
ほうこうさんや鯛持えびすなどの人形は,嫁入り先で子どもたちに配られていたことから「嫁入り人形」とも呼ばれ,当時市井の家には必ずといっていいほど飾られていた。その種類も何百,何千とあったといわれる。鍛冶屋町には嫁入り道具の店と並んで嫁入り人形を扱う店が軒を連ね,大変賑やかであったという。フサの作る人形は人々の暮らしの傍らに置かれた身近な玩具であった。
戦時中は人形作りも難しくなり,戦災で伝統の人形型も失われ,戦後は嫁入り人形の風習も途絶えつつあったが,昭和24年(1949),高松で開催された観光博覧会をきっかけに民芸品として注目されるようになる。物質的な豊かさを得ていく中で,フサの作る人形の素朴なあたたかさ,愛らしさが改めて人々の心を魅了しはじめてゆき,昭和34年(1959)には鯛持えびすが,郵便年賀切手のデザインに採用され,フサの名は郷土玩具作家として広く全国に知られることとなった。
昭和41年(1964),83歳で香川県文化功労者に選ばれたフサは「好きな人形を作ってごほうびをいただけるなんて,こんなうれしいことはありません」と喜んだ。「仕事をしとるほうが,ママ(食事)がおいしい」と語るフサは,人形作りが何より大好きで,百歳を迎えてなお人形作りを続けた。皆から「おばあさん」と呼ばれて慕われたフサは,その手から生み出す人形に似た色白の愛らしい女性であったという。

【宮武外骨】

過激にして愛嬌あり
我輩がかつて滑稽新聞をやっていたので我輩を一つの滑稽な人間とのみ解しているワカラズヤが世間に甚だ多いようだ。また印刷物なども露骨ザックバランに思うことを書いたので俗物どもは不真面目だと思ったらしい。しかし自分の心を偽ッて立派な事を並べ立てる奴こそ滑稽なので,我輩のごとくザックバランに意見を吐露するのは決して滑稽ではない。これも大なる真面目であるのだ。
大正4年;『ザックバラン』第1号
宮武外骨は慶応3年(1867),阿野郡羽床村(現綾川町小野)で土地の庄屋の家に生まれた。外骨とは亀が外骨内肉の動物であることに由来する名で,18歳の時自ら改名した戸籍上の本名である。
15歳で初めて上京,19歳で再び上京し,以後数々の新聞・雑誌を創刊した。その代表作が明治34年(1901)に大阪で創刊した『滑稽新聞』である。「過激にして愛嬌あり」のキャッチフレーズのもと,世の中の不正や不義を叩いて爆発的な人気を誇った。


滑稽新聞
一方自殺号と銘打った173 号で廃刊されるまで,約7年間で本人および関係者の入獄・罰金刑・発行停止・発行禁止の筆禍は20回を越える。権力に屈せず,常に庶民の目線から社会の不条理を問う姿勢は「反骨のジャーナリスト」と呼ばれるゆえんである。『滑稽新聞』廃刊の後,東京に活動の場を移してからも『スコブル』などの雑誌を創刊,また『面白半分』『つむじまがり』などの単行本も好評を博した。
『滑稽新聞』のような諷刺的内容の著作で知られる外骨であるが,生涯の著作は実に多彩である。大阪時代には浮世絵収集に没頭,『浮世絵鑑』や研究雑誌『此花』を刊行している。また川柳についても川柳叢書や雑誌『変態知識』を刊行。そのほか,『私刑類纂』や『賭博史』といった,国民性研究といえる著作も発表している。
時代を諷刺し,探究心の赴くまま筆をとり続けてきた外骨は,関東大震災をきっかけに,新たな活動,「明治」の研究と資料収集にのり出し,東京帝国大学内に明治新聞雑誌文庫を設立する。墳墓廃止論者を自称し続けた外骨が「精神的埋葬所」と譬えるほど,心血を注いで築いた明治新聞雑誌文庫は,今日日本近代史を解き明かす重要な資料の宝庫となっている。


展示では,同時代に活躍した人々の書も展示しました。そのときの人物紹介の解説パネル文もあわせて掲載いたします。

【黒木安雄】

慶応2年(1866),那珂郡吉野上村(現まんのう町吉野)に生まれる。父茂矩は藩校の教授をつとめた漢学者であった。長尾雨山とは東京帝国大学古典講習科の同期生で,同校卒業後は香川県師範学校に奉職し,明治35年(1902)に香川県工芸学校(現県立高松工芸高校)の第二代校長に就任。在任中の卒業生である野生司香雪とは,インド滞在時に書簡のやりとりをしている。その後東京帝国大学や東京美術学校で講師をつとめた。詩書を通じて乃木希典や犬養毅(木堂)とも親交があった。明治36年(1903)には源平合戦総門碑(現高松市牟礼町所在) の撰文と揮毫を手がけている。欽堂・武卿と号した。

【三木武吉】

明治17年(1884),高松外磨屋町(現高松市磨屋町・丸亀町一帯)で旧高松藩士の家に生まれる。高松中学校・同志社中学部を経て,東京専門学校(現早稲田大学)を卒業。日本銀行に入社後,高等文官試験司法科に合格。東京地裁に勤務の後,弁護士となる。大正6年(1917),衆議院議員に初当選。昭和7年(1932)の京成電車乗入事件に連座して一時政界を離れ,戦後香川県から衆議院議員に当選するも,公職追放により再び政界を去り,追放解除後再び返り咲く。以後は鳩山一郎内閣成立を目指して吉田首相と対決,「影の実力者」として保守合同の立役者となった。号は蕾庵。

【山川波次】

慶応3年(1866),高松藩士の羽原家に生まれる。後に陽明学者山川南岡の養子となる。岡内春塘の九思義塾を卒業後,小学校教諭を経て,香川県師範学校に奉職。明治43年(1910)には白山高等女学校(現県立高松東高校)校長となるが間もなく辞職し,有志とともに大正7年(1918)明善高等女学校(現英明高校)を創立して初代校長に就任。女子の教育に貢献するとともに,菊池寛や与謝野晶子などの文化人を招いて,たびたび講演会を行った。書をよくし,梅斎と号した。

【松平頼寿】

明治7年(1874),旧高松藩主松平ョ聰の子として生まれる。学習院中等科を経て,東京専門学校(現早稲田大学)を卒業後,家督を相続し伯爵となる。明治41年(1908),貴族院議員に初当選,以後死去するまでつとめ,昭和12年(1937)には貴族院議長に就任している。県教育会長・松平公益会初代会長・帝国教育会長などを歴任し,東京駒込に本郷中学校を創立。明治維新後松平家に払下げとなった高松城の整備を積極的に行ったことでも知られる。黒木欽堂(安雄)に書を学び,長尾雨山も参加した泰東書道院の顧問にもなっている。象嶽・藻海・披雲閣主などと号した。

【赤松 渡】

天保11年(1840),高松藩侍医渡辺家に生まれ,後に赤松姓を名乗った。明治維新の際に高松藩の少参事となり,後会計検査院に勤務,香川県(第1次)の職員から,名東(徳島)県時代には大区長(山田郡長)をつとめた。明治23年(1890)の高松市の市制発足時に初代市長に選任された。市長を退いた後は県博物館主事として,『香川県史』の編纂に取り組んだ。詩文に巧みで,また槍術を得意としたという。号は椋園。

【谷本 富】

慶応3年(1866),高松藩士の家に生まれる。医学を志して高松中学校を経て高松医学校に進むが,卒業後は東京帝国大学文学部に入学。山口高等師範学校(後の山口大学)教授・東京高等師範学校(後の東京教育大学)教授を経て,欧州に留学。帰国後に教育学研究では日本初の博士号を取得し,京都帝国大学文学部教授となる。ドイツの教育学者ヘルバルトの教育理論研究で知られる。雄弁家でもあり,乃木希典の殉死を批判して京都帝国大学を退官後は,高松の教育者と連携して教育環境の発展に尽くした。号は梨庵。

【中野武営】

嘉永元年(1848),高松鉄砲町(現高松市扇町)で高松藩勘定奉行の子として生まれる。香川県庁・内務省地租改正局勤務を経て,愛媛県会議員となり,香川県の愛媛県からの分立に尽力した。その後,明治23年(1890)の第1回衆議院議員選挙に立候補し当選。一方経営不振に陥っていた東京馬車鉄道会社副社長に就任してこれを建て直し,明治38年(1905)には東京商業会議所(現東京商工会議所)の2代会頭に就任,米国経済視察団長や東京証券取引所理事などを歴任し,政財界で活躍した。香川新報社(現四国新聞社)の創立者でもある。

【猪熊信男】

明治15年(1882)阿波藩士蜂須賀家に生まれ,後に大内郡白鳥村(現東かがわ市)の猪熊家の養子となる。高松中学校・第七高等学校(後の鹿児島大学)を経て,京都帝国大学電気工学科を卒業。京都帝国大学史料編纂所嘱託・文部省宗教局嘱託・京都帝室博物館学芸員などをつとめた後,宮内省図書寮御用掛を20年にわたってつとめる。宸筆(天皇作の書画)研究家・鑑定家として知られ,晩年は自宅(現県重文猪熊邸)に恩頼堂文庫を設置,文化財の調査保存にも貢献した。恩頼堂学人・電影子・樟園などと号した。