諸々の巻

ほうこうさん

 奉公人形・ほうこうさんは讃岐はもちろん,とりわけ高松として代表すべき張子の玩具である。三月の雛節句にも飾るが,子どもの時分,同じ村の家に嫁入があれば,嫁の土産としてこの玩具を子供等に分けあたえたものである。高さは九寸五分,六寸,三寸七分の三種で,紅の衣装に金泥の袖口の模様を持った,実に簡明ながら美しい姿のものであった。この人形は「ひとかた」と称する類のもので,一種の厄除けとして愛用されてきた。
挿絵
 昔,それは何時頃のことか年代は明らかでないが,お姫様のおそばにおまきと呼ぶ少女が奉公に上っていた。姫様が重い熱病にかかられた時,おまきは病をお治しせんと,水垢離をとって神仏に祈願をこめ,ついに病を引受けてその熱病のために倒れた。姫の病は,その甲斐があって全快したということである。
 身を捧げ,身を捨てた尊いまごころを礼讃するために,奉公人形という張子人形が作られて,それが疱瘡よけの人形にもなった。病をその奉公人形にうつして海に流せば,どんな重い疱瘡でも,またどんな重い熱病でもなおると信じられていた。

 

苦抜き達磨

 昔々,とんと大昔のことである。
 高松の近くに大層な物持が居たが,今では奢りのはて,村はずれの山の中に堀立小屋を建て,山仕事をしながら過去の栄華を夢見ていた。
挿絵
ところがある夜,枕もとにかねてより信仰する神の託宣があった。そこで早速夜が明けると,お告げのあった件の場所に来て見たが,それらしいものは何一つとして見当たらず,ただそのところには枯れた一本の老木が根を四方に張っているだけである。失望落膽(らくたん)した男は,うなだれてすごすご引返したが,途中どうしてか,今の枯れた老木をしらべずに帰ることが胸騒ぎして仕方ないので,急いで引き返した。よく見ると老木の根元に,パクリと口の開いた空洞がある。その中に手を入れ,四方をグルグル掻きまわしたところ,ふと手に探り当たものがあるので,あわてて取り出すと,それはまことに粗末な見た事もない異様な「クヌギ」製の達磨であった。しばし考えていた男は,少ししてハタと手を打って喜んだ。この達磨の尊像こそ,日頃信ずる神の賜り物であると,家に持ち帰って恭々(うやうや)しく祭壇に祀った。
 そうしてその日から,心気一転・奮起一番,達磨の如く見栄を飾らず,少しも怠らず,懸命に仕事を精出した。仕事に疲れ切った体も,この達磨の尊像を拝むことによって「苦を抜いて」くれた。こうして勤労の苦行を重ねる事により,年と共に昔日の家運を取戻すことが出来,その後は,安楽な生活を送る幸福な人となったということである。

 

龍の臍くすぐり

昔,
挿絵
 大旱魃(だいかんばつ)のあった時,三番丁法泉寺住職了応和尚の後を受けて,同町大本寺の日省上人に命が下った。上人はかんかん日照りの晴天に雨具を着用して寺を出たというから,よほど自信があったのであろう。摺鉢谷の山上て雨を祈ること数刻,たちまちにして雷を起し,雷神や龍の臍(へそ)をくすぐったので,大いに雨が降ったと『祈雨記』にみえている。その後,大本寺は代々雨を祈る寺となっている。
挿絵
 また,同寺の境内に,九ツ井と呼ばれる井戸がある。この井戸を掘った由来は,ある時国主の御茶の水を奉らんとして,旧来の井戸水ではよくないとあって,新しく井戸を掘ったが思わしい水がでない。ついに九箇の井戸を掘り,九ツ目の井戸から極めて清らかな水が出たので,これを国主に奉ったところ,非常にお気に召された。九ツ井の井戸の名声はたちまち国内に広まったのである。今でもこの水を汲んでお茶の水としている。また,旱魃の時には,この井戸に蓋をして龍神を祀るのを例としている。

参  考

法泉寺・・・番町一丁目に所在する。生駒家二代・一正,三代・正俊の墓所がある。
了応・・・雨乞い伝説で有名な僧。
大本寺・・・現在,築地町に所在する。
日省・・・大本寺の開基。寛文12年()没,74歳。

 

帰らぬ狐

挿絵
 讃岐一国では,古くから狐に化かされた話は聞かない。・・・狸に関しては随分多いが・・・これは弘法大師が当国の狐たちを集めて調伏(ちょうふく)されたためだという。その時大師は言われた。「汝等生あるものならば,しばらくこの地から去るべし。」と。気のきいた一匹の古狐が反問した。「お大師さま,しばらくって一体何時頃までですか?コーン。」大師は冷やかにいわれた。「鉄の橋のかかるまで・・・。」丸木橋や一本石の橋は想像されたが,鉄の橋は大師も空想されなかった。狐は異議なく諸国へ撤退した。だが果たして狐がこの約束を忘れたものか,大師がさらにいましめられたものか,鉄の橋がアチコチにできても,狐は讃岐へは帰らなかった。