人物の巻

百石松

挿絵
 天下の名園・栗林公園内の商品陳列所前に,百石松という這松(はいまつ)がある。
 今から約百五十年程前,松平藩の家老・稲田貞一氏の邸内にあったもので,彼はこれを非常に愛翫し(あいがん),朝夕手入を怠らなかった。ある日,このために登城の時間に遅れるに至った。藩公から大いにお叱りを受け,その罰として五百石に減じられた。松を愛する家老は,けっしてこれを恨まなかったという。以来,人呼んでこれを百石松といい,明治時代に栗林公園に移植された。

参  考

百石松・・・亀松とも呼ばれる。
商品陳列所・・・現在の商工奨励館。
家老・稲田・・・藩士由緒録によれば,稲田外江は500石から400石に減じられている。

 

宥遍の大力

 高松市弘憲寺に宥遍(ゆうへん)という日本無双の大力の僧がいた。修行のために東国を廻っていた頃,ある道のかたわらに四・五人の追剥(おいはぎ)と思える大男がいたので,用心して通り過ぎようとしたとき,「おい。坊主,路銭をくれ。」と呼び止められ,前後を取り巻かれた。宥遍,考えて,この男どもを打ち殺すことはたやすいけれど,出家の慈悲にかけて,ただ追払うだけにしようと思い,かたわらの幹まわり一尺ばかりの木をぬいて見せた。これを見た盗賊は天狗の仕業であろうといって,逃げ去ったという。
挿絵
 ある日,知人の禅寺に行き,丁度,庭先にある新しい手水鉢を眺め入った。よく見ると,手水鉢(ちょうずばち)の置き方が表と裏が逆になっている。そこで,庭におりて手水鉢に手を掛けて持ち上げながら置き代えた。このとき中に八分目に入っている水が,少しもこぼれなかったという。この手水鉢は据える際には三十人を要した大きなものだった。
 この怪力に惚(ほ)れ込んで,諸国の大名から千石・二千石の知行で召抱えようとする使者も多く来たが「仏道の障碍である。今後は再び力を出すまじ。」と固く誓って,並々の僧侶として身を終えたという。

参  考

弘憲寺・・・錦町二丁目に所在。高松生みの親・生駒親正夫妻の墓所があることで有名。

 

徳巌

 高松市濱ノ町直指山見性寺第十四世徳巖(とくげん)は,同寺歴世中最も傑出した人物で,学徳並に高く,聞こえた高僧であった。
 高松藩祖・松平ョ重公は平生深く徳巌に帰衣(きえ)せられ,ときおり下屋敷に招いて仏典の講義その他法話を聴かれた。
挿絵
延宝4年8月・ョ重公剃髪(ていはつ)後,時々藩士およびその他家族ならびに各宗の僧侶を集めて,自ら談義説法せられたものである。ところが徳巌と法泉寺住職了応(りょうおう)とは,いつも俗人の説法聞くに及ばずと出掛けなかった。ところが翌五年八・九月の頃であった。またも英公(頼重のこと)が説法せられるから,徳巌も出よという通知があった。この時も例によってお断りしたところが,是非とも出席せよと申しつけられた。しかし徳巌はどうしても承知しなかった。その内再三・再四の矢の催促にすっかり嫌気になったものか,徳巌はにわかに旅の装いをして,弊履(へいり)を棄てるが如く寺を立ち退き,西方を目指した。ほどなくこの事を聞いた英公は「さて今時そんな坊もあることか」と驚かれて「何はともあれ呼び返せ」と,早速追手を差向け,やっと丸亀でさがしあてた。色々となだめすかして連れ帰ったが,徳巌は一旦寺を出たからには,再び見性寺に住む道理がないと言って寺にはいらず,宮脇村にて住んだという。

参  考

見性寺・・・現在,三谷町に所在するが,かつては錦町二丁目の弘憲寺横に所在した古刹。
徳巌・・・三谷・犬の馬場の人。水戸光圀に招かれ大雄院の住職でもあった。
法泉寺・・・番町一丁目に所在する。生駒家二代・一正,三代・正俊の墓所がある。
了応・・・雨乞い伝説で有名な僧。

 

深井林右衛門

 朝のそよ風に音もなく桐の花がこぼれていた。
 煙管(きせる)の羅宇(らう)ばかりの太さの竹を,五六十歩へだてた所から射あてようとねらっているのは,深井林右衛門だった。
 矢が弦を離れたかと思う刹那(せつな)に,的の竹は二つに折れて,さっと飛び散った。
挿絵
今度こそは竹のきり口を的として矢が放たれた。矢はたがわず竹に当り竹は二つに飛び散った。林右衛門の顔には,満足の色がしばしただよった。
 秋もすでに紅葉の散りかかる頃だった。林右衛門は,弓友達二三人と酒を酌(く)み交わしていた。ほろ酔いかげんのよい気分にひたっていた。その時だった。一羽のヒヨドリが庭の木に来て,けたたましく啼(な)いた。「これはよきさかなが参ったぞ」と,長押(なげし)の上の弓を取って,あり合わせの矢をつがえて庭へ降りていった。
 庭に居合わせた人々は固唾(かたず)を呑んで見守っていたが,林右衛門が見事射とめたので,やんやと手を打った。
 これはその後の話であるが,同席していた弓友達の一人が,「何時ぞやのヒヨドリは見事なお手並だった。しかし,貴公あんな座興(ざきょう)は今後慎まれたがよいぞ,万一,あたらなかったら武人の恥になるからのー。」といましめた。「お言葉を返して相済まぬが,この林右衛門,鳥獣を射かけては一矢必中の信念がござる。」とからからと笑った。信ずる事は力なのである。

参  考

深井林右衛門・・・高松藩士由緒録には,代々林右衛門を名乗る深井氏が記録されている。