怪異の巻

藤尾八幡の霊鐘

挿絵
 延宝年中(1673〜81)のことであったという。東植田村の中村という人が,神内談議所(じんないだんぎしょ)の地中から,印金鈴(いんきんすず)五股,鐘一口を得た。ところが,その後,高松藩公松平ョ重(よりしげ)が鈴五股は高松の鶴林寺に,鐘は本門寿院にそれぞれ賜わった。するとその鐘は撞(つ)かないのに,「神内に帰ろう。神内に帰ろう。」と響くので,縣八幡に納めたところ,それより怪異は無くなったということである。その鐘の銘(めい)は,次のように彫られてあったということである。

           讃州植田郡神内妙福常住
   奉造立鐘籠臺宇
           安国二年巳酉卯月五日

参  考

東植田村・・・現在の東植田町。
印金・・・織物に金箔や金粉を貼り飾る技法。ここでは鈴に金箔を貼ったという意味か?
松平ョ重・・・高松松平の初代藩主。
鶴林寺・・・現在の中野町付近にあった寺
本門寿院・・・克軍寺,生駒時代に造営された
談義所・・・延喜年間(901〜23)各国に七談義所を立て,国中の僧に学問に励むようにさせた(全讃史)
縣八幡・・・現在の藤尾八幡神社。
安国・・・安国という元号はない。


 

一ツ目小僧

挿絵
 高松城が,築かれて五十幾年にしかならない頃のこと,城には人柱の亡魂が(ぼうこん)雨夜に現れたり,三つ目小僧が広間に毎夜でるなどの噂(うわさ)が立っていた。城内にもどことなく陰鬱(いんうつ)な空気が張っていた。そんな噂には耳にもかけない様に,すぐに入城された松平ョ重公であった。一月後の秋の最中のこと,御庭の萩が今を盛りと咲いて,高い空には三日月が鎌をといでいる,乱れ雲の足も早い宵(よい)過ぎである。
 用事を達せられた公が,手を洗おうと近習(きんじゅう)の差出す水を受けられようとした時,手水鉢(ちょうずばち)の蔭(かげ)にムックリ立った怪物,こちらを向けば夜目にもそれと判る一ツ目の大入道,爛々(らんらん)と鏡の如き眼をクワッと開いて公をにらんだ。その怖さ,近習はキャツといったままその場に倒れてしまった。ョ重公はさあらぬ態(てい)で「何物なるか!」と底力のある声で詰問(きつもん)すると「汝(なんじ),この城の主を知らざるか。」と怪物は答える。その時,公は大喝(だいかつ)一声「汝,国主を知らざるか。」公の言葉は簡単ではあるが威(い)は重々(おもおも)しい。明らかにこの勝負は一ツ目小僧の負け,以後城内に怪奇を聞かぬ様になったとか。

参  考

生駒親正・・・生駒家初代。高松城築城者。
人柱・・・高松城には人柱伝説はのこされていないが,かつてはあったのであろうか。
近習・・・身のまわりの世話をする側近。

 

汗流しの鐘

 端岡村の国分寺には,古来伝わる無銘の梵鐘(ぼんしょう)がある。
 この鐘は海中より採り出したもので,諸人は龍宮より供養(くよう)せしものであろうと,直ちに国分寺に奉献(ほうけん)した。地金の性質は不詳であるが,音は無類の妙音(みょうおん)である。
挿絵
 毎年6・7月の酷暑の頃になると,点々と水滴が落ちるので,この地方では「汗流しの鐘」といっている。
 慶長年間に高松藩主の生駒一正公が,この鐘の妙音を賞して,田を一町ばかり寄進して高松へ運んだ。その時,五十人が三日ばかりかかってやっと運ぶことができたという。城下で突く鐘の音は,以前とは似ても似つかぬ不快なものであり,あたかも「国分寺に帰りたい帰りたい。」と聞えるという。
 この年,城下に疫病(えきびょう)が流行して死者の数がはなはだしい。占うと国分寺から持ちかえった鐘のたたりであるというので,早速国分寺にかえし,生駒公を始め関係者一同は,厚く鐘を供養した。
 こうして鐘はかえった。音も元の様に妙に響く。間もなく城下の疫病も鎮まったという。
 不思議なことに鐘を国分寺にかえすときには,わずか八人で軽々と半日で持ち帰ったという。そのとき鐘の上空には五色の雲があらわれ,観音さまが招来(しょうらい)して,鐘を運ぶ人々に力を貸したと伝えられている。

参  考

端岡村・・・現在の綾歌郡国分寺町。
国分寺・・・天平13年(741)聖武天皇の勅願により建てられた讃岐の国分寺。四国霊場第八十番札所。
無銘の梵鐘・・・現在,重要文化財に指定されている。
生駒一正・・・生駒家2代の藩主。