1 樽  流  し

 大曾瀬(おおそのせ)と大槌島(おおづちじま)の漁場争いがあったのは,享保16年(1731)のこと。鯛や鰆の好漁場なので,入りこんできた,いや,ここはうちの漁場なのだ,いや,これはこちら側の漁場なのだと争った。ことは,漁師ばかりのけんかでおさまらなくなった。きちんとけじめをつけて貰おうと,備前藩が江戸まで訴えて出た。

 讃岐の高松藩も負けているわけにはゆかない。香西から植松彦大夫等六人が連署(れんしょ)で応訴(おうそ)した。幕府の役人は,木村藤九郎,斎藤喜六郎が,「じや,実地検分いたしましよう。」とやってきた。

 大槌島を南北に二分し,南半分が讃岐,北半分が備前のもの。この境界線を引きのばした大曾瀬から南側を香西の漁場,北側を日比(ひび)・渋川(しぶかわ)・利生(おどう)と備前の漁場とした。

 しかし,これでおさまったわけではない。じゃ今度は,樽を流して漁場を決めようと言うことになった。言い出したのは,備前の菅野彦九郎。この男,なかなかのきれ者,才知と弁舌で知れわたっている。大槌島を半分備前の領地にしたのもこの彦九郎の策略,争いが起きるといちはやく大槌島へ上陸して畑を作りはじめた。木炭を埋めて境界も作った。そして,まんまと北半分を備前領としてしまった。ある日のこと,彦九郎はこの大槌島から樽を流しはじめた。樽は,塩飽諸島のほとんどをとりこむように流れていったので,彦九郎はすっかり自信をつけてしまい,空樽を流して漁場を決めようと言い出したのだ。

 讃岐の漁師もそれは妙案と賛成し,両藩立合いのもとに,大槌島から神意を秘めた樽が投げこまれた。

 彦九郎は,内心ほくほくと今に見ておれと得意顔。ところが,樽の流れが少々変わってきた。樽は,讃岐側へ行くはずなのに,だんだん備前側へ寄りついてゆく。鷲羽山(わしゅうざん)のあたり釜島と室木島の間まできて,樽はやっと西に向きを変えた。松島の南をすれすれに流れ下津井瀬戸をゆっくり進んで,六口島の南を通り水島灘へ消えていった。

 思いがけない結果に彦九郎はがっくり,陽もはや西へ沈もうとしている。「あなたのご期待通りにゆかなくて申しわけないが,ご異存はあるまいな。念のため申しあげると,潮の流れは時刻によって方向が違ってくるものじゃ。これが,もう半刻も遅れていればこれらの島はみな備前のものだったわ。」彦九郎は兜を脱いだ。海の知識の深さはとうてい讃岐にかなわないと,「まいりました。海は,讃岐におまかせ致しましょう。」

 それから,備前の海は,讃岐の海より,狭いものになってしまったという。大槌島は半分備前領となったが,備讃海峡の島々はそのほとんどが讃岐のものとなり,現在に至っている。

 このとき江戸の裁判官のなかに,大岡越前守忠相の名があり,政所の植松彦大夫,浦年寄瀬戸屋善兵衛らが紛争解決に功労があった。なお,このときの判決状に八人が印を押していることから“八判”といわれるようになった。





2 経  沈  め

 保元元年(1156)の夏のこと,崇徳上皇(すとくじょうこう)が讃岐へ配流となる。ひとまず,高屋(現在坂出市)の綾高遠(あやのたかとう)の邸へ入られたが,間もなく長命寺へ移り住まわれた。高遠は,上皇さまの無聊(ぶりょう)をなぐさめるため娘を仕えさせた。

 高遠の娘は,都から下られた尊いお方の側近くへお仕えするためらいもあったが,いつかおやさしい上皇さまの胸にいだかれることが喜びとなってきた。そして,綾の局と呼ばれるようになる。

 都でどのようなむごいことがあり草深いこの地へ流されてこられたのか,綾の局には理解できない部分も多かった。だが,悲運をかこつ上皇さまをお慰めするのがわたしのつとめと,綾の局はまめまめしくお仕えするのだった。

 愛の結晶である顕末(あきすえ)も生まれ,静かな生活を上皇さまもお喜びになっていらっしゃると思ったのも束の間,配所は鼓岡(つづみがおか;現在坂出市府中町)の木の丸御所(このまるごしょ)へと移された。御所は厳重な牢舎,丘を背に柵をめぐらし出入りは木戸が一つ,終日番人が立っていた。中には池があり,池のむこうに風雨をしのぐばかりの板葺の小屋。監視はひときわきびしくなり,木戸の外への散策などは許されるはずもない。

 御子とともに暮らすことなど思いもよらぬありさま,綾の局さえお側へも寄れない。

 はるばる都から訪ねてきた人とも逢うこともかなわず,上皇さまは日々荒んでゆかれる。鼓岡の配所でこれほどの冷遇を受けるとは,上皇さまにも思いもよらぬこと。あるいは,京都で政変が起こり呼び戻される日があるやも知れぬと,一縷(いちる)の望みをつないで,生きながらの墓所に上皇さまは座っていらっしゃった。そして,五部の大乗経の写経に励むことで,諦観(ていかん)の境地にはいろうとつとめられた。

 幽囚(ゆういん)三年あまり,上皇さまが心血を注いだ写経が完成,その巻末に

   浜ちどり 跡は都に 通へども 身は松山に 音のみぞ聞く

 御詠を書き添え,父鳥羽上皇の永眠するみ寺へ奉納すべく送られた。だが,呪詛(じゅそ)するものだ,と送り返されてきた。上皇さまは発狂せんばかりに怒りくるわれた。

 「われ魔性とならば,王を奪って下民となし,下民とって王となし,この国に世々乱をなさん」

 みずから舌を噛み,血をもって経巻の奥に誓言を書かれた。経巻の箱にも,小指をくいきって,五部大乗経竜宮へ納め給えと血書され,槌の門の千尋(ちひろ)の海に沈められた。

 槌の門では,海上で火が燃え童子が舞をまった。すると,竜神が現われ経巻をしっかりと受け取ったという。

 それからの上皇さまは,髪もひげも剃らず爪も切らず柿色の衣もまころびるにまかせ,ただ悪念三昧(あくねんざんまい)に都を呪い大魔王になると祈られた。

 木の丸御所に入られてから5年,上皇さまは46才で崩御。綾の局の聞いた死の真相は,讃岐の武士が上皇を弑逆(しいぎゃく)。柳の洞穴へ逃れた上皇さまを追っかけ。水にうつるお姿をみて斬りつけたというのだ。綾の局の悲しみは深かった。高遠とも相談し,上皇の御子顕末は瀬居の島へかくした。

 上皇のご遺骸は,都からの使いが来るまで八十場の霊水にひたされ,検視が終ってやっと荼毘(だび)にふされた。ご葬儀の列が高屋のあたりヘきたときものすごい雷鳴,六角石の上へ柩をすえて雷雨のしずまるのを待った。石の上へは,うす赤い絹の糸を引くような血が流れ落ちた。ご遺体は,白峰の稚児滝(ちごがたき)のあたりで荼毘にふされたが,まっ白い煙がまっすぐたちのぼり,その先が心なしか都の方へたなびいていったと伝えられている。

 崇徳上皇が,五部の大乗経を沈められたので大槌・小槌の両島は,経が島とも呼ばれるようになりその神秘さを深めたという。





3 了応和尚の雨乞い

 法泉寺(ほうせんじ)の了応和尚が,雨乞いをした話である。その年は非常な旱魃(かんばつ)で,せっかく植えつけた稲も枯れてしまうと大変なさわぎ。飲み水にも不自由するありさまに,高松藩主は,城下の法泉寺了応和尚に雨乞いをするように命じた。了応和尚は,雨乞いの方法を知らないから許して欲しいと断ったものの,藩主のたっての願いなのでお受けすることにした。

 了応和尚,さてどうすればよいかと考えた。そして,翌朝,大きな船に和尚を乗せて大槌・小槌の間の槌の門へ連れていって欲しいと言う。藩主は,大鯨船を用意したという。舟子は16人,これも腕達者を乗りこませて出発。槌の門は潮の流れの早いところ,この槌の門へさしかかったとき了応和尚は何やらを海へ投げこんだ。

 「船頭衆,さあいそいでくだされ。大雨にならない間に帰らなければなるまいで。」 

 と,言う。船頭さん,空を見あげてにやりと笑う。雨だと,大雨だと,何処に雨雲があるというのだと,和尚のことばを鼻のさきで笑いとばして船足を進めようとはしない。

 「さあ,早く,早く。」

 了応和尚は気が気でない。舟子たちはのんびりと,あわてるふうもない。空はあくまで晴れ渡って百日余りも雨知らずの海である。

 すると,どうであろう白峰山のあたりからふっと雲が現われた。みるみる空をおおいつくした黒雲から一粒,二粒雨が落ちはじめた。一天にわかにかき曇りとはこのこと,沛然(はいぜん)と雨が降りしきる。車軸を流す勢いで降りしきる。おどろいたのは舟子たち,全速力で船を香西沖へまわしたが,東西南北識別できないほどの大降り。船頭も舟子もぬれねずみ,了応和尚も濡仏となってしまった。やっと,出発地点の東浜へ着いたときは,へとへと。

 「愚僧の言うことを聞かぬからこのありさまじゃ。ひどい目にあったわい。」

 と,了応和尚は上陸。それから,雨は三日間も降り続いたという。藩主も住民も大よろこび。枯死しかかった稲もいきいきとよみがえった。

 さて,一体,了応和尚は,どうして雨を降らすことができたのかと聞いてみた人がいた。

 「いや,なに,龍神さまに一筆つかわしたからじゃ。」

 「龍神さまにお手紙を,何と書かれましたか。」

   いっぴつけいじょういたしそうろう さんしゅうだいかんにてくにじゅうなんぎそうろうあいだ
  『一筆致啓上候,讃州大旱にて国中難儀候間
     あめふりそうろうようなられべくそうろう ごしょうち
     雨降り候様可被成候,御承知
       これなくそうらえばわれらそこもとへまいりそうろうてごたいだんもうすべくそうろう
       無之候得ば我等其元へ参候て御対談可申候。
                    りゅうじんどの
                    龍神殿   』

 と書いたという 讃岐は大旱で国中が難儀していますから,雨が降るようにしてください。もし,ご承知がいただけないのなら,私が直接参ってお話し申しあげます。というのだった。

 この了応和尚に,帰依(きえ)する者がにわかに多くなったと伝えられている。


イラスト  ★ ☆ ★  長尾  ★ ☆ ★