タイトル
那須与一

源平合戦とは何か

 そもそも源氏と平氏が争うようになったのは,はじめは地方の武門で,そのうちに宮廷に登用されるようになった両勢力が,やがて宮中での内紛に加わったことに端を発します。

 両者の対立は,保元の乱(1156),平治の乱(1159)の両内乱で表面化し,特に平治の乱では平清盛が勝利を収め,源義朝は討たれます。その嫡子頼朝は伊豆に配流となり,平氏が源氏を押さえて大躍進する直接のきっかけとなりました。

 その後十年もたたないうちに,平氏一族の繁栄は「総じて一門の公卿十六人,殿上人三十余人」という有り様となります。しかしながら,その専横ぶりは排除された旧勢力からの反感を受け,栄華は長く続きませんでした。後白河法皇の皇子以仁王と,源頼政が,治承4年(1180)平氏打倒の兵をあげると,各地の武士団が次々と参加し,全国的な争乱に広がります。

 以仁王の令旨に端を発したこの動乱は,約五年間におよびました。源(木曾)義仲は,横田河原合戦等を経て,倶利伽羅谷合戦の大勝利を収め,平氏一門を都落ちに追いやります。意気揚々と上洛した義仲でしたが,やがて義仲を疎んじ始めた法皇の策略等によって,次第に窮地に追いつめられ,敗走の途中で命を落としました。

 義仲を破って入京した源範頼・義経の源氏軍は,和平を信じて安心していた平氏軍を一の谷に急襲し,大勝しました。その約一年後,義経は四国に渡り,屋島に本拠を移していた平氏陣営に火を放ち,壮絶な矢合戦のうえ,勝利をおさめます。

 さらに義経・範頼は,平氏を追いかけて長門国(現,山口県)に西進し,壇の浦海上で開戦しました。戦いは源氏の勝利に終わり,平氏一門はその多くが戦死または入水し,源氏の平氏追討はほぼ完了しました。

 源頼朝は,建久3年(1192)念願の征夷大将軍に任ぜられ,武家政権としての鎌倉幕府が誕生し,平安時代はその幕を閉じたのです。

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 屋島合戦
 
 源平合戦の絵画化
 
 屋島の源平史跡地図