弐 屋島と屋島城跡・長崎ノ鼻砲台跡 


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屋島全景
屋島全景

  屋 島   φ  ∵  ≠  刀@ Ж  ♪  ‰
屋島山頂部
屋島山頂部

朝焼けの屋島
朝焼けの屋島

夕暮の高松
夕暮時,屋島から高松の街を見る
 高松のシンボル。屋根型の整った山容が全国的にも著名である。
 かつてはその名のとおり島であったといわれ,北嶺と南嶺にわかれた山頂部は平坦となっており,標高は292メートルを測る。
 山の基盤は,花崗岩でその上に凝灰岩がのり,さらに安山岩が薄く覆っている。この安山岩が周囲の岩石より固かったため,侵食から取り残されて現在の山容となった。このような地形をメサ地形といい,屋島はその典型である。
 屋島は独立した台地であるため,瀬戸内海への眺望は極めて良く,なかでも南嶺の「獅子の霊厳(ししのれいがん)」)は,高松市街地を見渡せる展望地として,「談古嶺(だんこれい)」は源平両軍が戦いを繰り広げた檀ノ浦を眺められ,北嶺先端の「遊鶴亭(ゆうかくてい)」は瀬戸内海の東西を見渡せる絶好の展望ポイントとして,それぞれ著名である。
 また,石場という地名もあるように,屋島では盛んに凝灰岩が採掘されたと考えられ,その跡地が洞窟としてのこっている。特に,北嶺・遊鶴亭の直下に大きな洞窟が所在する。


   屋島城跡   Д  ∽  ∂  £  ♂  ∀  ξ
屋島城・石垣
石垣/この横に城門がある

屋島城・城門
屋島城・城門

屋島城の防御線
屋島城の防御線か?細長い平坦地

浦生谷奥土塁
浦生の谷奥にある土塁
 日本書紀の天智天皇(626〜671)6年(667年)に,「讃吉国山田郡(さぬきのくにやまだごおり)に屋嶋ノ城を築く」という記載がある。(なお,屋島城のような古代の城の場合「城」は,「ジョウ」とか「しろ」と読むのでなく,「キ」と読むのが正しい。)
 屋島西町の北部,浦生の谷奥に,延長100メートルに及ぶ大きな土塁(堤防のようなもの)がある。さらにその横には,見張台のようなものも造られている。また,南嶺山頂部分急斜面との境界付近で,高さ4メートル余りの石垣(石塁)や,全長200メートルにもおよぶ細長い平坦地が最近確認された。これらの遺構が,天智天皇の時代に造られた屋島城にあたるのではないかとということで,発掘調査を実施したところ城門が発見された。
 このことから,これらの遺構が天智天皇の時代に造られた古代の山城であることが,ほぼ確定された。
 当時,大和朝廷は朝鮮半島の白村江で,中国大陸の大国「唐」と朝鮮半島の統一を果たした「新羅」の連合軍と戦い,大敗を喫した。そして,連合軍の侵攻を恐れて築いたのが,屋島のような城である。同様な城が北部九州や瀬戸内海沿岸に点在する。
 古代において屋島は,大和朝廷にとって,極めて重要な軍事的拠点の一つであった。


  長崎ノ鼻砲台跡   Å  ∈  ∃  η  煤@ ∬  ⌒
砲台下段
砲台下段を見る

砲台下段
砲台下段を南の砂浜より見る
 幕末,外国艦船が日本近海に出没するようになり,高松藩でも海防論が高まった。
 そこで藩では,勤皇家の藤川三渓(1816〜1889)に命じ,屋島の先端・長崎ノ鼻に,上,中,下段の三段に分けた砲台を築いた。上段には,守備兵の屯所,中段,下段には三基ずつの大砲を備え,高松の守備にあたった。現在も砲台跡は良くのこっており,特に下段は石垣を用いて築いた頑丈な造りとなっている。
 長崎ノ鼻は,現在でも高松から大阪方面へ航行する船が,眼前を通ることからもわかるように,海上を行く船を見張るには絶好の場所であった。江戸時代には役人も置かれていた。砲台が造られたのは自然の成り行きかもしれない。
 付近には,九州の阿蘇山付近から運び出された凝灰岩で造られた石棺が認められる長崎ノ鼻古墳等があり,一帯が海上交通のうえで重要な場所であることを,うかがえるポイントがいくつかある。


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