廿五  喜岡城跡 


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喜岡城跡
高松城跡の石碑・喜岡城は高松城ともいう

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喜岡城跡の岡神社


喜岡寺の門


岡神社裏の石祠

 別名,高松城(現在の高松城は,天正16年(1588)生駒親正が名づけたのに始まり,喜岡城とは全く別である。)という。
 この城が登場するのは,南北朝時代の軍記物・太平記である。当時の高松城は,讃岐守護の舟木頼重が城主であった。しかし,建武2年(1335)足利方の将・細川定禅が突然兵を上げ,讃岐の将兵の多くも相従い攻め寄せた。
 このとき城は落城,舟木側は敗走している。実はこの事件が讃岐の南北朝時代の始まりであり,長い戦乱の時代に突入したのである。
 再び高松城が歴史の上に登場するのは,天正11年(1583)のことである。当時の讃岐は,土佐から進出し四国を統一した長宗我部元親の支配下であった。豊臣秀吉は四国平定するために大軍を送り込むのであるが,その目標となったのが,高松城であった。
 天正13年には大軍に攻められ城は落城,城主の高松頼邑,応援の将,唐渡弾正,片山志摩の三将とともに200人余の兵が全員,城を枕に討死にしてしまう。これにより讃岐の戦国時代は終わり,近世の幕が開くことになる。
 さらに重要なことは,この戦いが讃岐国内での最後の戦いとなることである。以後,讃岐の地では,軍隊同士が戦うことは絶えて無くなった。
 なお,喜岡城跡には三将の墓があり,現在は喜岡寺が建てられている。


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