由佐氏と由佐城跡
由佐氏
由佐氏は俵藤太藤原秀郷の末裔で、もとは下野国益子(今の栃木県芳賀郡益子町)に住み「益子」を姓としていました。秀郷の子孫に益子下野守顕助というものがいましたが、彼は足利尊氏の部下となり新田義貞と京都東寺で戦い建武3年(1336)討死しました。
顕助の子弥次郎秀助は父の手柄により、尊氏から讃岐国に井原郷(今の香南町、香川町川東、香川町川内原)を賜り、ときの讃岐守護細川頼春に従ってこの地に移りました。秀助は由佐に屋敷を構え、地名をとって姓を由佐と改め、今の鮎滝に鳥屋城を築いて守りの要塞としました。
これが讃岐由佐氏の始まりです。

由佐氏の戦国時代
由佐家に残された史料の中に『長宗我部合戦記』があります。由佐城に攻め寄せた土佐の長宗我部氏と由佐氏との合戦の模様を、享保5年(1720)の頃、由佐氏の子孫である久右衛門(きゅううえもん)が書いたものです。
それによりますと、天正11年(1583)四国平定の最後の段階に入った長宗我部元親は、羽床城を落とし、由佐城に押し寄せて来ました。由佐氏は少ない人数で敵の大軍を引きつけ果敢な戦をしました。合戦の末、元親勢との和議に持ち込んだことは誠に見事なものです。この後、元親は三谷、香西と攻め四国は全て元親に平定されました。
天正13年、豊臣秀吉の四国平定に伴い讃岐は仙石秀久が統治することとなり、由佐家もその配下に属し九州平定の軍に参陣しました。このときの敗戦の責任を取らされた仙石秀久に代わって讃岐の領主となった尾藤知宣にも従ったとされています。尾藤知宣も程なくして讃岐の領主を免ぜられ、領主の地位は生駒親正に受け継がれます。由佐家は生駒家に属し、文禄・慶長の役と2回朝鮮に出陣しました。その戦功により500石の禄を与えられたのです。
天下分け目の戦いといわれた関が原の合戦には、東軍として戦った生駒一正に従い戦功を立てました。
その後、生駒氏が讃岐から出羽国矢島(今の秋田県由利本荘市)に移された後は、土地の豪農として、香南地域で大きな勢力を保ち、明治時代を迎えています。

由佐城跡
由佐城は、由佐氏の居城で、東は香東川、西に沼地の多い自然を巧みに利用した要塞です。天正11年(1583)長宗我部元親軍が攻め入ったが容易に落城しなかったと伝えられる堅城でした。
由佐家にのこる由佐家文書のなかに「由佐城絵図」があり、それによりますと香東川の西岸に柳並木があり、それに接して「下之城」があり、その西に内堀を隔てて「上之城」が設けられていました。上之城を中心に周囲16町ばかりの中を外堀、内掘によって仕切り、各地区は橋で結ばれ、外との連絡も南、北、西に設けられた橋によって行われていたことがわかります。
城内には土塁が築かれ、櫓もあったそうです。由佐家の居宅とした屋敷内には内堀、土塁跡を見ることができたそうです。今でも香南歴史民俗郷土館の敷地内、庭園西側には土塁の跡が残されています。周囲には南門という地名も伝えられています。

安倍晴明
「由佐城絵図」には「安倍晴明墟」の記述があります。昔から由佐家では、水・火・盗難を封じた陰陽師安倍晴明の練石を神庫に収め、その石を祀って災難を防いだといわれています。
陰陽師として全国に知られた安倍晴明は、讃岐の国に生まれたという伝説もあります。由佐城と安倍晴明、不思議な結びつきです。

高松市香南町歴史民俗郷土館
由佐城跡に建設されたもので、郷土館の建物は、現存する最古の天守閣を持つ福井県の丸岡城をモデルに建てられており、館内には歴史展示室、民俗展示室、図書室を備え地域の歴史を知ることができ、本格的なお茶室の拵えのある研修室もあります。