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讃岐国分寺跡資料館 館の周囲

国分尼寺跡

讃岐国分寺跡とペアで創建された尼寺跡。国分寺と相違して,塔は造られませんでした。讃岐国分寺の北東・約2kmに位置していて,讃岐国司庁跡とはかなりの距離があります。
現在の国分尼寺 法華寺現在,法華寺と呼ばれる寺の境内には,当時の金堂の礎石と考えられる石材が幾つか見られます。推定ですが,南北4間,東西7間の大きな建物であったことがわかります。
讃岐国司に在任中の菅原道真が国分尼寺を訪ね,白牡丹の漢詩を詠じたことはつとに有名です。
創建以降,国分寺の末寺となるなど幾多の変遷を遂げましたが,江戸時代に至って遂に廃絶してしまいます。そして,小さな堂を残すのみとなりました。
白牡丹の碑弘化3年(1846)になって,国分尼寺跡に法華寺が再興されました。今,同寺の山門には,「法華滅罪之寺」との額が揚げられ,かつての国分尼寺の法統を継ぐ寺であることを示しています。
寺域は東西約180〜210m,南北約180mと考えられ,法華寺の北東に鎮座する春日神社は,北東隅にあたると推定されています。
また,発掘調査により南西部で境界を画する大溝が発見されていて,今後の調査の進展が期待される遺跡ともいえます。
昭和3年(1928)讃岐国分寺跡と同時に,国の史跡に指定されました。

遍路道

四国霊場を巡る人々のことを,お遍路さんと言っています。現在でこそバス,自家用車を利用するお遍路さんが多くなりましたが,昔はもちろん徒歩でめぐっていました。
歩いて旅をする彼らが通る道を,遍路道といいます。
国分寺の近辺では遍路道は,79番札所の高照院天皇寺から国分寺に至り,そして,81番札所の綾松山白峰寺へと続きます。
かつては,国分台へと登る路が遍路道で「遍路ころがし」といわれる急な道したが,今は自衛隊の演習場のため通れなくなっています。
代わって,国分台の東方・猪尻山の斜面を登る路が利用されています。この路も国分台の遍路道に劣らず急な坂道です。
現在,歩いてお遍路の旅をする人も,徐々に増えています。国分寺の境内でも,それらしき人も多く見かけるようになりました。
皆さんも一度,お遍路さんとして急な坂道に挑戦しては如何でしょうか。

国分台

国分台を南からみる五色台の一部,国分寺の北側にあるテーブル状の山です。屋島ほどではありませんが,山頂は広く平らで,典型的なメサ地形といえます。
山頂一帯は,旧石器時代の大規模な遺跡で,石器の石材に利用されたサヌカイトとともに,石器や石器を製作する際に出来た剥片が,散乱していました。
讃岐国分寺が所在するところから,この名が付けられたのでしょう。
現在,山頂部は自衛隊の演習場となっていて,立ち入りは禁止されています。

如意輪寺窯跡

如意輪寺公園の傍らに発見された瓦窯跡。2基の窯が並んで確認されましたが,いずれも検出時の全長が4mほどの小規模な半地下式の平窯です。 11世紀末に近い時代に操業したものと,出土した瓦などから考えられます。
現在,瓦窯本体は公園内に埋め戻されて保存されていて,説明板も建てられています。

如意輪寺のヤブツバキ

ヤブツバキは,日本の代表的な椿の野生種です。
このヤブツバキは樹齢300年以上といわれ,幹の根許に近いところから複数の枝に分かれ,大きく枝を広げています。
毎年3月頃に深紅の花が咲きます。

国分八幡宮

社伝によりますと,天平勝宝年間(749〜756)に讃岐国分寺の鎮護として,参議・石川朝臣年足と侍従・藤原魚名が創祀したといわれています。 空海も讃岐国分寺の中興にあたり,あわせて当社を修築したといわれます。
国分八幡宮本殿裏また,讃岐名勝図会によれば,久安2年(1146)に山城国の石清水八幡宮から勧進されたとする説もあるそうです。
中世には,神社のある新居郷を本拠地とした新居氏が守護神として崇敬しました。
慶長2年(1597)には,高松生駒家・初代藩主の生駒親正が,社殿を再興し武術試合を奉納したといわれ,2代・一正の時代には鳥居を奉納したと伝えられています。寛永3年(1626)4代・高俊の時代には奉幣があったそうです。
また,生駒氏に代わった高松松平家・初代藩主の松平頼重も長刀を寄進し,たびたび参詣したそうです。
万治年間(1658〜60)には焼失し,後には現在の神殿を造営したといわれ,以来,岩川八幡宮と称し,岩川さんと通称されていました。
現在,岩川八幡宮に代わって,国分八幡宮の名称を用いています。
この神社の本殿の裏には,大きな石が積まれた区画があって,古代からの祭祀場とも考えられています。

田宮坊太郎の墓

国分八幡宮の南側の地を国分八幡大門といい,田宮坊太郎仇討の跡といわれています。
坊太郎は子供のとき,父・田宮源八郎を堀口源太左衛門に殺されて以来,柳生流を学びついには奥義を授かります。
そして,国分八幡宮の境内で父の仇である源太左衛門を討ったといわれています。
仇討後,坊太郎は若くして亡くなったといわれ,墓と伝えられる五輪塔が,国分八幡宮の東側に残されています。

蓮光寺山

高松市と坂出市の境界の山。標高370メートル余。この山の西に古代の県庁にあたる讃岐国司庁跡があります。
有名なのは,この山から産出するサヌカイトで,良い音がでることからよく知られています。
なお,山の名前は,東南裾に所在する蓮光寺に由来します。

関ノ池

JR国分駅の南に広がる池。高松市西部では最も大きい池です。
関ノ池の現状 背景の山は蓮光寺山菅原道真が讃岐国司であった時代に詠じた漢詩に出てくる蓮池が,この池ではないかとする説がありますが確かではありません。
また,讃羽綴遺録という書物には,高松城を築城した生駒親正によって,高松防備のために造られた池であると記されています。関ノ池と西の坂出市府中町との間は狭くなっています。そのような所に大きな池を築くと,高松城を攻めようとする軍隊が通りにくくなるからでしょう。
この池の北側を旧国道11号線とJR予讃線が,南側を国道11号線が走っていますが,今でも,関ノ池のある辺りは交通の要衝といえるのです。

鷲峰寺

高松市と坂出市との境界にそびえる山,鷲ノ山の麓に所在する寺です。古くは地名をとって,柏原堂と呼ばれていました。
鷲峰寺境内昔中国大陸にあった国・唐から日本に渡ってきた鑑真和尚によって,天平勝宝年間(749〜56)に草創されたといわれる寺です。
その後,寺は衰えましたが,弘法大師・空海の妹の子(姪の子との説もあり)である智証大師・円珍がこの地に来て,千手観音像を安置して寺勢興隆に尽力されたといいます。
かつては隆盛を誇ったらしいですが,南北朝時代以降の争乱で寺勢は衰退し,天文年間(1532〜54)には兵火によって堂宇が焼失してしまいました。
寛永7年(1630)には小堂が再興され,松平頼重の時代に多くの堂宇が再建されました。
重要文化財に指定されている鎌倉時代の彫刻・木造四天王像が保管されていることで有名です。
本堂前に並んで立っている二本の樅の大木は,香川の保存木に指定されています。
現在,国分寺の奥ノ院として,人々の参拝を集めています。

府中山内瓦窯跡

高松市と坂出市の境界に幾つかの窯跡の所在が知られていますが,ほぼ完全に近いものは坂出市側に遺されています。
傾斜地を利用した穴窯という構造で,国分寺,国分尼寺と同形式の瓦が出土していることから,両寺の建立にあたって使われた瓦を焼いた窯であることがわかります。
大正11年(1922)に国史跡になっています。なお,名称は指定当時の村名である府中(現在の坂出市府中町)と山内(現在の高松市国分寺町新名など)を付けたものです。