讃岐国分寺跡資料館 讃岐国分寺
天平文化の華 国分寺の歴史
天平13(741)年,聖武天皇は各国ごとに官営の僧寺と尼寺を建てることを命じました。正式名称を僧寺は「金光明四天王護国之寺」(一般には国名を付けて○○国分寺と呼ぶ)尼寺を「法華滅罪之寺」(一般には国名を付けて○○国分尼寺と呼ぶ)と定めました。
また,当時都があった奈良(平城京)には,各国に建てられた国分寺,国分尼寺の頂点として東大寺・法華寺を建立しました。
これによって,疫病や天災・内乱など社会不安が緩和できると期待したのです。
国分寺の造営工事は,各国の国司(中央から派遣された国府の長)の責任で推進され,遅くとも天平宝字年間(760年前後)には,ほぼ全国的に完成したようです。
讃岐国分寺の歩み
古代において香川県は讃岐国と呼ばれていました。この讃岐国の国分寺は高松市国分寺町国分,国分尼寺は同町新居に置かれました。(当時は阿野郡新居郷)
讃岐国分寺は,天平勝宝8年(756)には完成していたと続日本紀に記載されています。
隣接する坂出市府中町(当時は阿野郡河内郷)に讃岐の国司が政務を執った国府があったので,ほどよい距離のところに国分寺,国分尼寺が建てられたのでしょう。
讃岐国司を歴任した有名人の中には,学問の神様として有名な菅原道具がいます。
当初は,国の庇護を受けて運営されていたものと考えられますが,古代国家の体制の変化に伴い国の管理・庇護を受ける寺から,多くの信者によって維持・運営される寺へと,長い歴史を経て変わっていきました。
創建時の国分寺
寺院の建物の配置を伽藍といいます。古代に建てられた寺院では,金堂,塔,中門,廻廊,講堂,僧房,鐘楼,経蔵等の主な御堂の位置は定まっていました。
時代の流れや地形などによって変動はありますが,当然,讃岐国分寺でもこれらの建物が存在したと考えられます。
それまでに分かっていたこと,発掘調査によってわかったことを加え,讃岐国分寺の伽藍を復元してみましょう。
伽藍
東西220メートル,南北240メートルの範囲が讃岐国分寺内であったことが,発掘調査でわかりました。
現在,国分寺や宝林寺の2つの寺,多数の民家が建てられている広大な敷地でした。

寺域の北側・南側の線上,西から4分1のところを結ぶ南北線が,讃岐国分寺の伽藍の軸となります。
この軸上の中央近くに建てられていたのが,金堂と呼ばれた讃岐国分寺の中心的な建物で,そこに創建時の本尊が安置されていたはずです。
金堂の裏には,仏教の講義を行った講堂跡があります。金堂よりやや小さめの建物と考えられます。
さらに講堂の裏には僧房が建っていたことが,今回の発掘調査により確認されました。一方,金堂の前には中門,南大門という門の存在が推定されています。
従って,南から南大門,中門,金堂,講堂,僧房が一直線に並んでいました。
これらの建物のほかに塔があります。讃岐国分寺の場合,七重の塔で金堂の南東に建っていました。
その他,鐘を保管する鐘楼,御経を保管する経蔵が建てられるのですが,讃岐国分寺跡では鐘楼と思われる建物が講堂跡の東で確認されているが,経蔵は発見されていません。
また,塔を取り込み中門と金堂を結ぶ廻廊も造られていました。さらに外側にあるのが築地塀で,南大門から発掘調査により寺域の周囲には,築地塀と呼ばれる大きな土塀が巡っていました。
下図は,現段階で想定される創建時の国分寺の伽藍配置図です。
図中のテキストをクリックして下さい。
金堂跡

国分寺の現本堂前に大きな石が並んでいますが,これが創建時の金堂の礎石です。金堂とは,現在でいえば本堂にあたり,ここに本尊が祀られました。
礎石の現状などから,基壇の規模は,東西34.9m,南北21.3m,建物の規模は,桁行27.8m,梁行14.2mと推定されています。
塔跡

国分寺の境内・東南隅に石造の七重の塔がたっている場所に,幾つかの礎石がみられます。これが創建時の塔の礎石です。石製の塔が建つ礎石は,丁度中央に所在するひときわ大きな礎石で,心礎といわれ,塔の中心となる心柱が立てられていました。石塔の基部をみますと,心柱を受ける柱穴が彫り込まれているのがわかります。
礎石の現状などから,基壇の規模は,17.8m四方,建物の規模は,10.1m四方と推定されています。
講堂跡
国分寺の現本堂は,この講堂の礎石を再利用して建てられています。
礎石の現状などから推定しますと,基壇の規模はわかりませんが,建物の規模は,桁行22.8m,梁行12.7mと推定されています。
中門跡
確認された回廊の跡などから,仁王門の場所に中門が建てられていたと推測されています。
回廊跡
中門から出て,塔を取り囲み金堂に至る廊下状の建物であったことが発掘調査からわかりました。回廊に囲まれた正方形に近い区域が,讃岐国分寺の中枢域にあたります。
発掘調査の結果から,基壇の幅は6.5m,建物の幅は3.6m程度と考えられます。
僧房跡
全国の国分寺でもトップクラスの規模を誇る僧房です。整備に伴う発掘調査で,創建時の状況などが明らかになりました。
発掘調査の結果から,基壇の規模は,東西87.9m,南北16.0m,建物の規模は,桁行83.9m,梁行12.0mであることがわかりました。
鐘楼跡
鐘を吊るすための建物です。普通,経典を保存する経蔵という建物とセットで建てられることが多いのですが,讃岐国分寺では経蔵は確認されませんでした。
発掘調査の結果から,基壇の規模は,東西7.1m,南北9.0m,建物の規模は,桁行6.2m,梁行4.1mであることがわかりました。
掘立柱建物跡
講堂跡の西側で,礎石を使わない建物が発見されました。僧房を補完する施設と考えられています。また,講堂の東側にも同じような建物があったと推定されています。
発掘調査の結果から,建物の規模は,桁行(南北)20.6m,梁行(東西)11.8mであることがわかりました。
築地塀跡
寺域全体を囲むように大規模な塀・築地があったことが,発掘調査により確認されました。その外側には,溝も掘られていて,寺の内と外を厳格に分けていました。
発掘調査の結果から,基壇の幅は4.4m,築地本体の幅は1.8m程度と考えられます。
南大門跡
中門の南側,寺域南辺上には,大きな門が建てられていたと考えられています。この門を南大門といいます。
特別史跡
地境などの痕跡から,昭和3年には,現国分寺境内を含む東西330m,南北227mの範囲が,讃岐国分寺跡として国の史跡に指定されました。このとき讃岐国分尼寺も史跡に指定されています。
そして,昭和27年には保存状態のよさ等から特別史跡に指定されています。ちなみに国分寺で特別史跡に指定されているのは,讃岐以外では,遠江国分寺跡(静岡県磐田市)と常陸国分寺跡(茨城県石岡市)があります。
さらに四国内の他国分寺の現状は,次の通りです。【阿波国分寺では,塔の心礎が現在の国分寺内に運び込まれています。伊予国分寺では,現在の国分寺の東方100メートルの位置に13個の巨大な塔の礎石がのこっています。土佐国分寺では,塔心礎が現在の国分寺の庭石に利用されています。】
以上のことなどから讃岐国分寺跡が,如何によく遺されているかがわかります。
四国霊場 讃岐国分寺
寺伝によれば,聖武天皇の命を受けた行基が,この地に来て讃岐国分寺を建立しました。その後,衰亡していた讃岐国分寺を弘法大師・空海が訪れ,寺を中興したといわれています。
弘法大師の遺跡をめぐる霊場めぐりのが盛んになるにつれ,多くの人々が訪れるようになったようです。国分寺の本尊である木造千手観音菩薩立像にある大永8年(1528)や,弘治3年(1557)の落書は,お遍路さんによるものです。16世紀の当時から庶民は,お四国参りをする人々が居たことがわかります。
その後,四国遍路が現在の形になって,讃岐国分寺は,四国霊場・四国八十番札所となりました。県内はもとより県外からも,多くのお遍路さんをはじめ善男善女のお参りが絶えません。
讃岐国分寺は,多くの参詣者であふれる四国霊場であるとともに,境内には,金堂跡・塔跡の礎石が残る天平の遥か昔を偲ぶことができる寺として,四国霊場八十八ヵ寺のなかでも特異な存在といえます。
重要文化財
国分寺には多くの文化財が残されていますが,なかでも国の重要文化財に指定された,銅鐘,国分寺本堂,木造千手観音立像は,よく知られています。
銅鐘
香川県でも最も古い鐘で,讃岐国分寺創建に近い平安時代前期頃から,あたり一帯に時を告げていた名鐘です。もしかしたら,発掘調査で明らかになった鐘楼に吊るされていたかもしれません。

鐘の身の高さは115.4cm,口径89.7cmを測ります。
幾つかの古様式な点がありますが,平安時代の鐘にしかみられない特徴もあるので,平安時代の前期に造られたものと推定されています。
昭和19年,国の重要文化財に指定されました。
鐘には,その歴史に相応しい伝説もいろいろ遺されていて,讃岐国分寺の長い歴史を物語っています。
昔,香川郡の安原郷(現在の高松市塩江町)にある百々渕には大蛇が棲み,村人を困らせていました。弓矢の名人・戸次八郎は,国分寺の千手観音に祈り,その矢を持って大蛇の退治に出発しました。八郎は,鐘をかぶって現れた大蛇に矢を射掛け,見事討ち取ったのです。その鐘は国分寺に奉納されたということです。
国分寺の鐘がよく鳴るというので,高松の殿様の生駒一正は持ち帰るように命じました。時を告げる鐘にしようとしたのです。命令を受けた人たちは,鐘を運ぼうとしましたが,実際以上に重く運搬作業は難航しました。それでも多くの人々を動員して運び,御城下の時を告げる鐘にしたのです。しかし,高松の街に様々な怪異が起こるようになりました。あろうことか,殿様まで病にかかってしまったのです。鐘の音は,国分へいぬ(いぬ・・・讃岐の方言で「かえる」の意味)国分へいぬ,と聴こえたそうです。鐘の祟りと悟った人々は,鐘を国分寺に返すことを決めました。国分寺に返すときは,鐘は大変軽く運搬作業はスムーズに行われたといいます。
国分寺本堂
桁行五間・梁行五間の本瓦葺の入母屋造りの建物です。建築年代は鎌倉時代中期をくだらないとされています。
講堂があった場所に建てられたものと考えられています。建物に比べ礎石が大きいことから,講堂の礎石を利用して規模を幾分小さくして建てられたものと指摘されています。
内部は南側桁行二間分を外陣とし,のこり三間分の左右に脇陣を設け,のこりを内陣とします。そのほぼ中央に須弥壇を置き,壇上の厨子の中に本尊の千手観音立像を安置しています。
戦時中の困難な時期である昭和16年から18年にかけて解体修理が行われ,現在の形に復元修理がなされました。
昭和25年,国の重要文化財に指定されました。
木造千手観音立像
上記本堂の厨子内に安置される巨大な像です。平安時代後期の作といわれ,現在は秘仏となっています。
千手観音は千の手によって人々を救うとされていますが,彫刻では実際に千の手を表現することは稀で,42手に表現することが多いのですが,本像も同じです。また,頭には10面の頭上面を有することから,十一面観音でもあります。
永長元年(1096)に諸国に丈六(1丈6尺/484.848cm)の観音像を造立し,国分寺に安置せよとの命が出たと記載が,関白藤原師通の日記「後二条師通記」にあるそうですが,この記述との関係が注目される仏像でもあります。
明治34年,国の重要文化財に指定されました。