屋島

史跡

指定区分   国指定史跡

指定年月日 昭和9年11月10日

所在地    高松市屋島東町、屋島中町、屋島西町、高松町

解説
 史跡屋島の構成要素は、古代山城屋嶋城、屋島寺、源平合戦の屋島の戦いの古戦場である。
 白村江の敗戦を受け、唐と新羅の侵攻に備え、中大兄皇子が国防のために築かせた城の一つである屋嶋城は『日本書紀』天智天皇6年(667)11月の条にその名が記され、その存在は古くから知られていた。平成10年の平岡岩夫氏による城壁(石積み)の一部の発見以後、発掘調査によって城門が発見され、その一部には朝鮮半島の築城技術である「懸門(けんもん)」や「甕城(おうじょう)」といった戦闘時に有効な防御構造が用いられていることが判明している。また、近年では、浦生地区の城壁の内側で屋嶋城と同じ時期の須恵器が出土し、この城壁が屋嶋城の城外の防備を固める施設であることが改めて確認されている。
 鑑真和上が開基し、弘法大師が南嶺に移したと伝えられる屋島寺は、時代は下るが、その伝承を示す仏堂跡と想定される礎石建物跡が北嶺の千間堂という地名が残る南側で見つかっている。平安時代の作で重要文化財の御本尊の千手観音坐像は北嶺での歴史を伝える重要な文化財である。その後、南嶺へと移った時期は明確ではないが、出土瓦等から平安時代末、鎌倉時代に南嶺で寺院の整備が行われており、重要文化財の本堂や貞応2(1223)年の銘をもつ銅鐘等がその歴史を物語っている。その後、江戸時代には龍厳上人による勧進によって大規模な再整備がなされ、江戸時代を通じて現在の寺観が整えられてきた。現在、四国霊場84番札所として多くのお遍路さんが訪れている。
 寿永4年(1185)2月に繰り広げられた源平合戦屋島の戦いの古戦場は屋島東麓を舞台とし、現在も、檀ノ浦という地名のほか、安徳天皇行宮跡とされる安徳天皇社、佐藤嗣信の碑、菊王丸の墓などの史跡が残っている。また、相引川を挟んで東側に位置する牟礼町や庵治町には、平氏が源氏との戦いに備えて船団を構えた場所や那須与一の扇の的の舞台となった駒立岩、洲崎寺などの史跡が点在している。
 このほかにも鵜羽神社境内遺跡(土器製塩遺跡)、長崎鼻古墳、屋島経塚、大宮神社経塚、石切丁場跡、長崎鼻砲台等、各時代の重要な遺跡が多く残っている。このように、史跡としての屋島には、「高松」、さらには「日本」の歴史の舞台が数多く残されている。

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