高松城の魅力を語る講座 その7

115

二階「旧茶室」。昭和天皇・皇后を迎えるにあたって、造られた「茶室」。釣り釜式といわれています。

116

「大書院」側から見た「旧茶室」。

117

「大書院」です。142畳。当時、多数の人に拝謁する場合に使用されていました。

118

木造トラス工法(天井裏に外国で学んだ、三角形の構造体を取り入れた建築法)を用いて大空間(柱と柱の間4間)を造り出した「大書院」。当時では、最新の技法を用いた屋根を支えることで柱をなくし、142畳にも及ぶ大空間を実現。伝統的な書院造りと洋間を設けるなど大正初期の近代的デザインが同居する和風建築としても評価が高い。

119

「大書院」の床(2間半)、棚をはじめとする室内の意匠が非常によく整っており、外観の瓦葺きの屋根が庭と一体となって作り出す建築技術の構成は、意匠的に優れています。

120

「大書院」の付書院の欄干の透かしなど大工作業のさえが随所に見られます。

121

各棟(各室)を廊下で繋いだ大規模な建物。高松松平家の高松での居住用に造られたこの「披雲閣」は、東京、大阪などの大都市以外の大正期における有力者の居住がどのようなものであったかを如実に示しており、その類例が少なくなってしまった現在にあって、歴史的価値が高い。大正期における、大工技術の高い水準を示すこの「披雲閣」は、日本の住宅史上貴重な存在であり、先の歴史的価値とあいまって、学術的にも高い評価を有しています。平成17年10月6日、高松市文化財に指定されました。

122

「脇玄関」です。現在は、管理事務所の玄関として使用されています。

123

「仕丁宅」です。現在は、管理人棟として使用されています。城郭建築物に属さないが、明治以降の歴史を知る上で重要です。

124

「倉庫」です。現在も、倉庫として使用されています。

125

「馬小屋」です。現在は、陳列館として使用されています。

126

「三の丸」南隅の三重の「龍櫓」跡です。周りに「多聞櫓」を配し、当時としては壮観な構えであったと思われます。また、「桜門」同様、黒塗り「下見板張り」の面影を残していたようです。

127

「東の丸」から見た「龍櫓」跡の石垣。

128

三の丸への入口「桜御門」跡です。寛文11年(1671)、披雲閣と同時期に建設され、「桜御門」が城内の正門となり、城下に通じる大手門は廃止された。「桜御門」は、通常の「虎口(こぐち)」(曲輪の出入口)になっていない門(曲がって開く)で、門内側に一文字石垣を造り防衛策としています。近世城郭の門としては特異な構造といえます。「桜御門」跡の石垣は、さして高くはないが、端正かつ荘重な美しさがあります。「三の丸」表門として、左右に「多聞櫓」が続いていたが、明治末期に取り払われて門のみ現存していました。

昭和初期頃。藩主の住んだ三の丸御殿の前に建っていた三の丸の表門(大手門にあたる)。もとは左右に多聞櫓が続いていたが、明治末期頃に取り払う。桜御門は戦災により焼失。下見板張りの外観は生駒時代の形式が残ったもの。「桜御門」は、櫓を載せた城門。階下が城門、階上が櫓となる。城門中ではもっとも堅固なもので、大手門や本丸正門など重要な場所は必ず櫓門としています。「桜御門」は下見板張りの外観を持つ櫓門です。下見板張りとは、近世城郭に多く見られ、外観を整えるために土塀等の表面に板を張ったものです。柿渋(防腐剤)を塗り、煤付けを施し、主に黒塗りとなっています。これは、矢狭間・鉄砲狭間などの防備機構を外から見えにくくする意図も合わせ持ったためです。

129

焼失した痕が見られる「桜御門」跡石垣。「桜御門」は、昭和20年の高松空襲により焼失してしまい、石垣に焼けた痕が見られます。

130

「桜御門」跡の礎石。「桜御門」は焼失し、礎石のみが残されています。

131

「一文字石垣」です。「披雲閣」の玄関前に東西約17mに渡って、直線に築かれた石垣があります。この石垣は、旧披雲閣の防備上築かれたものです。目的は、正面からの直進と視線を遮断するものです。勢留(せどめ)ともいいます。

132

「石垣に見られる化粧」です。城の石垣は、石を積み上げた後、表面を仕上げて「化粧」していました。化粧の目的は、美的な問題です。石垣表面の醜い凹凸を消して、美しく平らに仕上げるのです。この仕上げ方には二種類あります。1cmほどの小さな「はつり」を満遍なく施すものと、「すだれ」状の縦筋に削り取るものです。

133

「桜御門」と「桜の馬場」を結ぶ土橋です。水堀(内堀と中堀)の水位調整の堤防としても利用されています。堀を渡るには、橋を架けます。その橋には「木橋」と「土橋」があります。江戸時代には「木橋」は「掛(懸)橋」と呼ばれ、文字どおり堀に掛けるものでした。それに対して、「土橋」は架けるものではなく、それは堀を渡る石垣や土塁でできた通路なのです。橋といっても「土橋」の下には空間はまったくなく、土砂が芯まで詰まっています。従って、城の大手は絶対に落ちない「土橋」とします。防衛上であまり重要でない橋は「木橋」としておいて、戦略的に橋の板を外して渡れなくします。


戻る

↑このページの上へ