千間堂跡(せんげんどうあと)

屋島寺は、寺伝では唐僧鑑真が都に向かう途中に来山し一宇を建立し普賢菩薩を安置したのがはじまりで、現在も北嶺芝生広場を中心に千間堂の地名が残っています。その後、弘仁元年(810年)に空海が南嶺の現在地に千手院を建立し、自作の千手観音を納めたとあります。屋島寺の前身である千間堂跡については、長らくその実体がよく分かりませんでした。平成11年度の分布調査で芝生広場北側の森の中で基壇をもつ礎石建物跡が確認されました。基壇は東西に長く40cmの高さをもち、基壇上には10個の礎石が確認されました。一部移動している礎石もありますが、礎石の位置から東西3間、南北2間の建物になるものと考えられます。基壇の内部を一部調査したところ、基壇東側で集石が認められ、その上部から須恵器の多口瓶(たこうへい)が破片で出土しました。仏具である多口瓶の出土により寺跡であることが判明し、寺伝にある千間堂跡の一部であることがわかりました。出土した多口瓶は、形態の特徴から9世紀後半から10世紀前半の時期が考えられます。建物の性格として周辺部に礎石をもつ建物が認められないことから仏像を安置するための仏堂としての用途が想定されます。礎石建物跡の北側について確認調査を実施しましたが、小規模な掘立柱建物跡を確認したのみであることから、現在までの調査成果から考えられる北嶺千間堂跡の伽藍配置は仏堂を中心に小規模な建物が点在していたものと想定されます。
その他の成果として、礎石建物跡の西側から集石遺構を確認しました。その後の調査で集石の中心部が2×2mの範囲を安山岩の板石で方形に区画している状況が認められたので、下部の状況を確認するために掘り下げたところ、土坑が認められましたが、上層から土師器が出土した以外は何も出土しませんでした。この集石遺構と同様なものに、県内豊浜町で確認されている大木塚遺跡と呼ばれる火葬墓があります。規模、集石状況、出土した土器の時期など共通点が多いことから、今回確認された集石遺構は火葬墓であると考えられ、出土した土器より13世紀頃と考えられます。

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土壇をもつ礎石建物跡(東から) 

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礎石建物跡土壇東側集石部分(南から)

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火葬墓と考えられる集石遺構(北から) 

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復元された多口瓶(たこうへい)3点


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